ジクサー150分割日本一周[95]
投稿日:2020年9月22日
遣唐使船の港「坊津」
国道226号で坊津に到着。
薩摩の坊津は伊勢の安濃津、筑前の博多津とともに、かつては「日本三津」と呼ばれた港で、中国大陸や南方諸国との交易の拠点になっていた。
遣唐使船も坊津から出た。華やかな唐の文化にあこがれた若者たちが、ここから東シナ海の波浪を越えて唐の国に旅立った。空海も最澄もここから船出した。
ぼくは「坊津」と聞くと、すぐに空海を思い浮かべる。
2009年にスズキの125ccスクーター、アドレスV125Gを走らせて、中国の「広州→上海2200キロ」を走った。その途中では、福建省の省都、福州から寄り道をして霞浦の町まで行った。霞浦郊外の赤岸というところが空海の上陸地点。そこには空海像をまつる「空海大師記念堂」が建っている。現在の海岸線ははるかに遠くになっているが、それは1200年の間に埋め立てられたからだ。
それにしても空海は強運な人間だ。延暦23年(804年)の第16次遣唐使船に乗ったのだが、坊津を出ると、4隻のうち2隻は嵐で沈没した。空海の乗った船はからくも沈没をまのがれ、赤岸に漂着。空海は上陸の許可が下りるまでの40日間、霞浦に滞在した。上陸許可が下りると海路で福州まで行き、福州から陸路で上海に近い揚州に向かった。揚州は鑑真の生まれ故郷。そこから大運河などの川船で洛陽まで行き、唐の都の長安(西安)に入った。
そのときの遣唐使船4隻のうち1隻だけは予定通り、寧波港に到着した。その船には最澄が乗っていた。最澄は寧波に近い天台山で修行を積み、日本に帰国後、天台宗を開いた。真言宗を開いた空海と天台宗を開いた最澄。日本の精神文化の二大巨頭は、ともに坊津から唐に旅立ったのだ。