カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

ジクサー150分割日本一周[316]

投稿日:2022年7月27日

四国一周編 10(2020年5月31日)

讃岐の国府めぐり(その2)

 徳島県三好市の吉野川の河畔に出たところで折り返し、猪鼻峠を越えて香川県に戻ると、琴平、善通寺を通って国道11号に出た。

 国道11号で坂出へ。坂出が讃岐の国府所在地になる。

「讃岐の国府めぐり」を開始。まずは県道187号沿いにある讃岐総社の総社神社に行く。総社神社の参拝を終えると、国道11号から県道33号を行く。このあたりは「坂出市府中町」。府中は讃岐の国府を証明する地名。府中ダムや府中湖がある。高松道には府中PAがある。

坂出の総社神社総社神社の鳥居これも鳥居?

坂出の総社神社 総社神社の鳥居 これも鳥居?

総社神社の拝殿県道33号に入る県道33号を行く

総社神社の拝殿 県道33号に入る 県道33号を行く

 JR予讃線の讃岐府中駅前から讃岐の国府跡へ。ジクサー150を止め、讃岐の国府跡を歩いた。そこには「讃岐国庁跡碑」が建っている。その案内板には次のように書かれている。

 綾北平野の南限にあって、三方を山で囲まれたこの地域は、大化改新による律令制度によって讃岐国府の置かれたところである。

 附近には垣ノ内(国庁の区域)・帳次(帳簿類を扱った役所)・状次(書状を扱った役所)・正倉(国庁の倉)・印鑰(国庁の印鑑・鍵の保管所)・聖堂(学問所)などの地名があり、名国司菅原道真の事跡とともに讃岐国庁の姿を偲ばせ、木ノ丸殿(擬古殿)、内裏泉、盌塚、菊塚など保元の乱によって讃岐に流された崇徳天皇の悲しい遺跡は、保元の昔を物語る。また白鳳期建立の開法寺の塔礎石や巨石墳新宮古墳・式内大社城山神社など古代〜中世の遺構も多く、ここに訪れる人々を古代讃岐のロマンへと誘うところである。

JR予讃線の讃岐府中駅讃岐府中駅近くからの眺め讃岐の国府跡にやってきた

JR予讃線の讃岐府中駅 讃岐府中駅近くからの眺め 讃岐の国府跡にやってきた

坂出市府中町の文化財案内板讃岐の国府跡の道標讃岐の国府跡を歩く

坂出市府中町の文化財案内板 讃岐の国府跡の道標 讃岐の国府跡を歩く

讃岐の国庁推定図讃岐の国庁跡の碑讃岐の国府跡の発掘調査図

讃岐の国庁推定図 讃岐の国庁跡の碑 讃岐の国府跡の発掘調査図

第80番札所の國分寺

第80番札所の國分寺

國分寺周辺の案内図

國分寺周辺の案内図

國分寺の山門

國分寺の山門

 讃岐の国府跡を歩き終えると、県道33号で坂出市から高松市に入り、国分寺町国分の國分寺へ。ここは讃岐国分寺の後継で、「四国八十八ヵ所」第80番の札所になっている。四国4国の阿波、土佐、伊予、讃岐の国分寺の後継は、すべてが「四国八十八ヵ所」の札所になっている

 天平13年(741年)、聖武天皇は諸国に国分寺を建立するよう勅願し、それに応えて行基が讃岐国分寺を開基した。四国八十八ヵ所にはこのほかにも、行基の開基した寺が何寺もある。

「行基菩薩」で知られる行基は奈良時代の僧で、和泉に生まれた。諸国を行脚し、「行基図」で知られる最古の日本総図をつくった。聖武天皇の帰依を受けてからというもの、奈良の東大寺や各国の国分寺造営に尽力した。

 國分寺の山門前には寺の由来が書かれているが、そこには創建時の金堂(本堂)と七重塔が描かれている。当時の壮大な伽藍が想像できる絵だ。

 山門をくぐって境内に入ると、四国八十八ヵ所それぞれの本尊の石像が並んでいる。ミニ四国八十八ヵ所めぐりをし、そのあとで本堂と大師堂を参拝。本尊の千手観音像は行基の作だという。境内の鐘は奈良時代のもので、国の重要文化財になっている。納経所から入っていく大師堂はほかでは見られない多宝塔様式。天平の昔を偲ばせる國分寺は、国の特別史跡に指定されている。

 こうして総社→国府→国分寺と、「国府めぐり」の3点セットをまわり、高松市内にある讃岐一宮の田村神社に向かった。

國分寺の由来國分寺の本堂國分寺の大師堂

國分寺の由来 國分寺の本堂 國分寺の大師堂

金箔の弘法大師像國分寺の鐘楼讃岐国分寺跡の礎石

金箔の弘法大師像 國分寺の鐘楼 讃岐国分寺跡の礎石

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