上ノ国の中世の館
投稿日:2010年12月3日
和人地と蝦夷地の境界
北海道遺産の町、江差をあとにし、国道228号を南下。隣の上ノ国町では海を見下ろす夷王山(いおうざん、159m)の中腹にある「勝山館(たち)跡ガイダンス施設」を見学。まさに「目から鱗」で、ここでは驚きの歴史を知ることになる。
「えー、北海道にこういう時代があったのか!?」
という驚きだ。
江差が近世以降の歴史の宝庫だとすると、上ノ国はそれ以前の、中世の歴史の宝庫ということになる。
北海道遺産になっている「勝山館跡」の歴史資料館の「勝山館跡ガイダンス施設」では、その歴史を詳しく紹介している。
勝山館は松前藩のもとを築いた松前氏初代の武田信廣の館跡。1470年頃に築かれたという。ここには200分の1の模型が展示されているが、自然の地形をうまく利用した三段構の山城で、まさに攻めるに難く守るに易い要塞。武田信廣はこの地で64歳の生涯を終えたという。
近年の発掘調査では約5万点にものぼる陶磁器や金属器、木器などが出土している。館の中では鉄製品や銅製品が盛んにつくられ、それが交易品にもなったという。当時のアイヌ人の使っていた骨角器も出土していることから、和人とアイヌ人が一緒に住んでいたのではないかと推論もされている。
アイヌ人の骨角器だが、全部で500点も見つかっているという。トリカブトの毒を塗って熊や鹿を獲る弓矢の矢であったり、鯨やオットセイを捕る銛だったり。ここでもアイヌ人たちはアイヌ人らしい狩猟の生活を送っていたようだ。
出土した陶磁器類の40パーセントは中国製の青磁などで、さらに今のサハリンの北夷(きたえぞ)から「銅雀台瓦硯」が武田信廣に献上されていることから、この地がいかに交易の中心であったか、また交易で栄えていたかがよくわかる。
勝山館はこのようにたんに要塞としての山城という一面だけでなく、大変な中世都市でもあり、16世紀の前半から半ば頃にかけてが最盛期だったようだ。。
16世紀の半ば頃、アイヌ人の「蝦夷地」と和人の「和人地」の境は上ノ国あたりと定められ、交易船は上ノ国の沖でいったん帆を降ろす決まりになっていたという。
「勝山館跡ガイダンス施設」の見学を終えると、勝山館跡を歩く。
坂道を下り、館神八幡宮跡から勝山館跡に入っていく。中央には幅3.6メートルの道。それが170メートルほどつづく。中世都市の大通りといったところだ。道の両側には広さ100~140平方メートルほどの土地を階段状につくり、そこに家が建てられた。ちょうど我が家と同じくらいの敷地なので、ここに住んだ中世人たちに親近感をおぼえるのだった。
中世都市の大通りの南端あたりに客殿跡がある。ここは客人をもてなすだけでなく、大事なことを決めたりする勝山館の中心となる場所。そこからは日本海を見下ろし、前方には白っぽい江差の町並みが望まれた。
上ノ国にはこの勝山館跡のほかに州崎館跡、花沢館跡と、3ヵ所の中世の館跡がある。