カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アイヌ口承文芸

投稿日:2009年11月22日

知里幸恵が残した『アイヌ神謡集』

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阿寒湖畔のアイヌコタン。梟の神が見える


 登別の海を見下ろす高台の上には登別墓地。その一角に知里幸恵の墓と金成マツの碑が並んで建っている。入口には2人を紹介する案内板。そこには次のように書かれている。

知里幸恵の墓
知里幸恵(ちり ゆきえ)1903年(明治36年)~1922年(大正11年)
 知里幸恵は当時の登別村に生まれ、7歳のころ旭川に移り、伯母の金成マツ、祖母のモナシノウクとともに暮らした。15歳のとき、言語学者の金田一京助と出会い、アイヌ文学(アイヌ口承文芸)の文字記述という画期的な仕事を手がけることになりました。18歳で上京し、金田一氏のもとで『アイヌ神謡集』の校正を終えた直後の、1922年(大正11年)9月18日、持病の心臓発作のため帰らぬ人となりました。当初は東京・雑司ヶ谷の金田一家の墓所に埋葬されていましたが、1975年(昭和50年)に祖先の眠る故郷のこの地に改葬されました。またアイヌ文化研究の基礎を確立した言語学者、弟の知里真志保は札幌の藻岩霊園に眠っています。
金成マツの碑
金成マツ(かんなり まつ)1875年(明治8年)~1961年(昭和36年)
 知里幸恵・真志保の伯母、金成マツは当時の幌別村に生まれました。18歳のとき、函館のイギリス聖公会アイヌスクールに学び、平取の教会、旭川・近文の教会で布教活動をつづけました。また、同居の母親モナシノウクはアイヌの偉大な叙事詩人といわれた語り人で、マツにもアイヌ物語文学(アイヌ口承文芸)は充分に継承されることになりました。知里幸恵の没後、その意思を継ぎ、晩年には故郷の登別に住み、ユーカラのローマ字筆記を始めました。その一部は『アイヌ叙事詩ユーカラ集』として発刊されています。1956年(昭和31年)には無形文化財に指定され、紫綬褒章を受賞。翌年、登別町(現登別市)功労賞を受けました。1961年(昭和36年)4月6日、81歳でこの世を去りました。

「北海道遺産めぐり」の「北海道一周」を終えて帰宅してからのことになるが、さっそく知里幸恵の『アイヌ神謡集』(岩波文庫版)を読んだ。

「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」という歌を私は歌いながら流に沿って下り、人間の村の上を通りながら下を眺めると昔の貧乏人が今お金持になっていて、昔のお金持が今の貧乏人になっているようです。
 
 という梟の神の自ら歌った謡「銀の滴降る降るまわりに」で始まる『アイヌ神謡集』には全部で13編の神謡が収められている。
『アイヌ神謡集』の冒頭には「その昔この広い北海道は、私たち先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう。」で始まる知里幸恵の序文があり、あとがきでは金田一京助が「知里幸恵さんのこと」と題して、19歳という若さで亡くなった彼女を絶賛している。巻末には弟の知里真志保が「神謡について」を書いている。

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知里幸恵と金成マツの説明板
知里真志保の碑


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岩波文庫版の『アイヌ神謡集』
『アイヌ神謡集」の「銀の滴降る降るまわりに」


『アイヌ神謡集』はアイヌ文化研究の貴重な1冊になっている。
カブタンとノンタンの北海道遺産」には、知里幸恵さんのことも紹介されている。旭川の北門中学校の校庭には「知里幸恵文学碑」が建ち、それには「銀の滴降る降るまわりに」が彫られているという。また、旭川市立博物館には知里幸恵に関する展示コーナーがあるという。
 登別の国道36号からわずかに入ったところには、知里幸恵の弟、知里真志保の碑が建っている。そこの案内板には次のように書かれている。

 この地は郷土の生んだ偉大な言語学者知里真志保が登別小学校に通い、天真爛漫な少年時代を過ごした思い出の多い所で、昔はランコウシ(桂が群生している所)と呼ばれた地域です。小学校のすぐ裏にはサケがのぼる登別川が流れ、対岸では『アイヌ神謡集』で有名な姉の幸恵、語学の実力者高央、そして『アイヌ叙事詩ユーカラ集』をまとめた金成マツも晩年を過ごしています。

 日高の二風谷はアイヌ人が8割近くを占め、北海道でのアイヌ文化の中心的な存在になっているが、そこには国道237号をはさんで東側には「萱野茂二風谷アイヌ資料館」、西側には「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」がある。
「萱野茂二風谷アイヌ資料館」には前館長だった故萱野茂氏がアイヌ民族の民話(ウウェペケレ)や叙事詩(ユーカラ)などを古老から聞き、それを録音し、それらの音声資料をもとにした音声付の『萱野茂のアイヌ神話集成』(全10巻)を館内で聞くことができる。「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」の館内にはユーカラの語りが流れていた。

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萱野茂二風谷アイヌ資料館
平取町立二風谷アイヌ文化博物館


 アイヌ文化研究家の萱野茂さんは二風谷の生まれ。民俗学者宮本常一先生が所長をされていた日本観光文化研究所発行の月刊誌『あるく みる きく』には以前、「アイヌの口承文芸」について、「アイヌの伝承」と題して、わかりやすく伝えてくれた。

 アイヌは文字を持たなかったけど、口で語り伝えるいろいろな性質の伝承を持っている。ユーカラ、ウウェペケレ、ウパシクマ(ツイタク)などで、一番名前を知られているのはユーカラだろう。ユーカラにはカムイ・ユーカラとメノコ・ユーカラ、それとただユーカラと呼ばれるものの3種類ある。
 そういういろいろな伝承を通じて、アイヌは子孫にアイヌ語とアイヌの歴史や精神を伝えようとしたけど、特にそのなかで日常的なアイヌ語を教える働きをしたのはウウェペケレだね。ウウェペケレは簡単にいえば昔話ということだけど、本来の意味はウ(互いに)ウェ(それ)ペケレ(明るい)、つまり、(それによって互いに明るくなる、それによってものを覚える)で、ただ単に昔を回想する昔話ではなくて、これから生きて行く上でのいろいろな知恵が教えられているものなんだ。しかもそれが日常生活で使っているアイヌ語で語られるから、子どもたちはそれで自然にアイヌ語をおぼえていった。人間同士がお互いを大切にし合うこと、自然を愛すること、生きものをむやみに殺してはいけないこと。そういう自然や人間とのつながりのあり方を教えるもので、ウウェペケレをたくさん知っているいいおじいさん、いいおばあさんといっしょにいる少年少女は、いい家庭教師、第一級の家庭教師といるのと同じなんだ。アイヌのいい精神文化は、そのなかで伝えられた。
 ユーカラというのは、本来はユカラ(真似る)という意味。そしてカムイ・ユカラは神様が自ら語る神様たちの物語。メノコ・ユーカラは、女の人が語る神様たちの物語。ただのユーカラというのは、男たちが語る神様や英雄の物語。いずれも古いアイヌ語で語り、雄弁なアイヌになる訓練にもなった。
 ウパクマシは、先祖の名前や生活上必要なものの所在(穴熊はどこにいるとか、トリカブトはどこに生えているとか)を忘れないための言い伝え。言葉による記録なんだ。

 このような「アイヌ口承文芸」は北海道遺産になっている。

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