カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

番外編 2000・サハリン縦断 1

投稿日:2010年10月2日

 第1回目のサハリン行、1991年の「東京→サハリン」につづいての第2回目、「サハリン縦断」を紹介しよう。

サハリンを北へ!


コルサコフ港に到着!

 2000年8月9日、「サハリン軍団」の総勢19名のメンバーとバイクをのせた東日本海フェリーの「アインス宗谷」(2628トン)は10時、稚内港を出港した。全員が甲板に集まり、100円の缶ビール(稚内港を離れると自販機の缶ビールは100円になる)で乾杯!
 缶ビールを飲みながら、離れていく北海道を眺めた。
 天気は快晴。稚内港からノシャップ岬、日本海へと続く海岸線がよく見える。
 礼文島、利尻島もよく見える。目の向きを変えると、今度は日本最北端の宗谷岬からオホーツク海へと続く海岸線を一望する。
「サハリン軍団」というのは、東京の旅行会社「(株)道祖神」のバイクツアー、「カソリと走ろう!」シリーズの「サハリン縦断ツーリング」に参加した19人のメンバーのことで、日本各地から稚内にやってきた。
「カソリと走ろう!」シリーズというのは1993年の「エアーズロック(オーストラリア)」が最初で、「タクラマカン砂漠」、「モンゴル」、「チベット」と続き、「サハリン」が第5弾目ということになる。
「サハリン縦断」には「道祖神」の菊地優さんが同行した。
「アインス宗谷」は宗谷海峡を北へ。北海道が視界から消えると、やがて前方にはサハリン最南端のクリリオン岬が見えてくる。そしてアニワ湾に入り、サハリンの島影を左手に見ながら北上する。

遠ざかる稚内
野寒布岬と利尻富士


 17時30分、サハリン南部のコルサコフ港に到着。日本とは2時間の時差があるので、日本時間でいえば15時30分。稚内港から5時間30分の船旅だった。
 コルサコフは旧大泊(おおどまり)。
 日本時代には稚内から大泊へ、稚泊航路の連絡船が出ていた。まさに日本の北への動脈であり、大泊は樺太の玄関口になっていた。
 コルサコフ港の重要性は今でも変わらない。
 コルサコフでの入国手続きは現地の旅行会社「ユーラシアインタートランス社」が事前に手配してくれていたので、すごく簡単にすんだ。バイクの持ち込みはうまくいくだろうか…と心配していたが、それは杞憂でしかなかった。
 1999年に全行程4万キロの「日本一周」を走った愛車のスズキ・ジェベル250GPSバージョンともども、コルサコフ港に上陸した。このバイクにはGPSがついているが、スクランブルがかかっているのだろうか、サハリンではそれが使えなかった。
 コルサコフ港に上陸して驚いたのは、サハリン警察のパトカーが我々を待っていたことだ。
 ユジノサハリンスクまでの40キロは赤青灯を点滅させたパトカーの先導つき。前に2台、後ろに1台と、まるでVIP待遇でユジノサハリンスクに向かっていく。この道はサハリンでは一番の幹線。それだけに交通量もけっこう多いが、パトカーはそれらの車をすべて止めて我々のバイクを走らせた。
 ユジノサハリンスクの町中に入ると、赤信号でも交差する道の車を止めて、「サハリン軍団」のバイクを優先して走らせた。ほんとうにVIP待遇だった。

「サハリン軍団」、出発!
オホーツクの海岸で昼食


これが昼食
ガソリンスタンドで給油


 サハリンの州都、ユジノサハリンスクでは駅前の「ユーラシアホテル」に泊まり、「レストランユーラシア」で夕食。コケモモのジュースやロシア製ビールの「バルチカ」を飲んだ。ツブ貝などの前菜のあとのメインディッシュは豚肉料理。サハリンでの肉の重要度は豚が一番で、そのあと鶏、牛の順だという。
 夕食後は夜のユジノサハリンスクの町を歩いた。街路樹の目立つ町。ここは旧豊原(とよはら)。日本時代には樺太庁が置かれた。昔も今もサハリンの中心だ。1967年からは北海道の旭川市と友好都市の関係にある。
 町歩きの最後はユジノサハリンスク駅。待合室のベンチに座り、ロシア人や朝鮮人の話し声をそれとはなしに聞いている。駅舎地階のバーで「バルチカ」を飲み、夜行列車がホームを離れていくのを見届けると、「ユーラシアホテル」に戻った。

ユジノサハリンスクから北へ

 8月10日9時、ユジノサハリンスクを出発。ここから先もパトカーの先導だ。 
 郡単位で警察の管轄が変わるので、郡境で次の警察のパトカーが待っているというリレー方式。ユジノサハリンスクの交通警察の警官、ジマさんと運転手のボローニャさん、ガイドのワリリさんが全行程を同行してくれることになった。
 ユジノサハリンスクの市街地を抜け出ると、広々とした平原。ぼくが先頭を走り、そのあとを「サハリン軍団」の18台のバイクが続く。バックミラーをのぞき込むと、1列になったバイクが長い線を描いている。
 オホーツク海に出た。海岸近くは広々とした湿原。その中を流れる幅100メートルほどの川を渡ったが、残念ながら橋の上からは何も見えなかった。
 前回、1991年に来たときは今回と同じ季節だったが、その橋の上からの眺めはすごいものだった。オホーツク海から登ってくるカラフトマスが群れをなしていたのだ。
 だが、残念ながら今回は、そのような光景は見られなかった。カラフトマスが来なくなってしまったのか、それとも時期がずれたのか…。
 オホーツク海の砂浜で昼食。若干、酸味のある黒パンにチーズ、ハム、チキン。オホーツク海を眺めながらの食事なので、よけいにおいしく感じられた。
 ユジノサハリンスクから100キロほど北に行くと、舗装は途切れ、ダートに入っていく。先導のパトカーの巻き上げる土けむりで、あっというまにぼくもバイクも埃まみれになった。
 途中で給油。街道沿いにはガソリンスタンドがあり、オクタン価93のガソリンを問題なく入れられた。
 というのは1991年に来たときは、極端なモノ不足で、ガソリンを手に入れるのは大変なことだった。ガソリンスタンドにもガソリンはなく、高額な闇ガソリンを買ったこともあった。それだけに10年間のサハリンの変化を見る思いがした。
 ユジノサハリンスクから300キロ北に行ったポロナイスク川の河口の町、ポロナイスクに到着。ここは旧敷香(シスカ)。日本時代の王子製紙の工場が、今でもそのままの姿で残っていた。
 旧敷香は王子製紙とともに大きくなった町だが、そのほか旧真岡(ホルムスク)や旧泊居(トマリ)、旧恵須取(ウグレゴルスク)にも王子製紙の工場はあった。日本語に堪能なワリリさんの話によると、それら王子製紙の工場は今でもそのまま使われているとのことだ。

ポロナイスクの宿

 ポロナイスクにはひと晩泊まった。そこは学生の寄宿舎で、外観は普通のアパートと変らない。まずはバーニャ(浴場)に行く。湯を浴びたあとサウナで汗を流し、葉のついたシラカバの小枝を束ねたものでビシバシと体をたたく。これがロシア流。体が赤くなるほどたたくと、温泉につかったのと同じように血行がよくなるという。
 そのあとで夕食。前菜にもサラダにも豚肉料理のメインディッシュにも、オクロップという青菜の香辛料が添えられている。これは日本でも最近使われているペンネルで、ウイキョウの仲間になる。サハリンの食文化というのはロシアと同じで、香辛料をよく使う食文化圏に含まれる。

北緯50度線を越えて

 翌朝、ポロナイスクを出発。道幅は広いが、前夜に降った雨で、ところどころに大きな水溜まりができている。交通量がガクッと減った。
 北に100キロほど走ったところで北緯50度線に到達。
「やったー!」。
「サハリン縦断」での、ぼくの一番の憧れは北緯50度線を越えることだった。それだけに喜びは大きかった。

北緯50度線の碑

 道のわきには「北緯50度線」の碑。それには南に向かって大きく目を見開いた旧ソ連兵の姿が刻み込まれ、その下には「ソ連軍は南サハリンとの間にあった国境線を開放し、古来のロシア領土を奪回した。1945年8月11日」とロシア語で書かれている。
 北緯50度線以南のサハリンが日本領「樺太」になったのは、日本の勝利で終わった日露戦争後のポーツマス条約(1905年)によってのことである。「北緯50度線」の碑文は50年後にまた領土を奪回したというロシアの高揚した気分が伝わってくる。
 サハリン最南端のクリリオン岬は北緯45度54分。最北端のエリザベート岬は北緯54度20分なので、この北緯50度線というのはサハリンのほぼ中央になる。今でもサハリンを南北に分ける大きな境目。近くの樹林の中には戦没者の慰霊碑がひっそりと建っている。このあたりは第2次大戦末期の激戦地だった。
 北緯50度線を越え、南サハリンから北サハリンに入ると、バイクで切る風は冷たさを増す。そこはツンドラ(永久凍土)の世界。夏のツンドラはただの草原にしか見えないが、バイクを止めて一歩その中に入ってみると、なんとも奇妙な感触を足の裏に感じる。まるで水を吸ったスポンジの上を歩いているようだ。ツンドラには花が咲き、マローシカというちょっと甘酸っぱい味の赤い草の実が成っていた。
 その夜はティモフスクで泊まった。
 ホテル内のレストランでサラダとマッシュポテトつきのハンバーグの夕食のあと、ロシア人スタッフたちとウオッカを飲んだ。息を止めて一気に飲み干し、飲みおわったあとフーッと大きく息をはく。それが正統なロシア式の飲み方だとのことで、我々も真似して飲んだが、あっというまに酔いつぶれたメンバーも出た。
 それにしてもロシア人たちは強い!
 ティモフスクからノグリキへ。その間は140キロほどでしかない。
「サハリン軍団」は渓流でたっぷりと時間を使い、サハリンの自然を楽しんだ。釣りの好きな人たちは渓流釣りをはじめる。イワナやマスが釣れた。
 ぼくを含めた何人かは「渓流浴」を楽しんだ。裸になって渓流に身をひたすのだが、キリッとした水の冷たさが肌に残った。
 ノグリキにはまだ日の高いうちに到着し、「ノグリキホテル」に泊まった。ユジノサハリンスクを出発して以来、初めて泊まる快適なホテル。シャワーを浴びてさっぱりしたところで町に出る。
 ホテル近くのパブに入り、大ジョッキーでビールを飲んだ。1杯8ルーブル。日本円にすれば約35円でしかない。
 町をぷらぷら歩くと、ギリヤーク族(ニグヒ族)などの少数民族をみかけた。ここには「北方民族博物館」があり、ギリヤーク族の住居や衣服、生活用具などが展示されている。サハリンには全部で24の北方少数民族がいるということだが、その多くは北サハリンに居住しているという。
 ホテルに戻ると、レストランで夕食。ロシアのスープ、ボルシチが美味。メインディッシュはロールキャベツなどの添えられたライスだ。
 夕食後は再度、町を歩き、サハリン縦断鉄道の終着、ノグリキ駅まで行った。

サハリン最北の地へ

 ノグリキから北に250キロ、サハリン最北の町、オハへ。
 その途中では1995年5月28日の大地震に直撃され、2000人以上もの死者を出したニェフチェゴルスクを通った。町は復興することもなく、北の大地にうち捨てられ、住む人もいなかった。町は完全に消滅し、荒野のまっただなかにポツンと慰霊塔だけが建っていた。そのあたりが、かつてのニェフチェゴルスクの町の中心だったという。
 コルサコフ港から936キロ走ってサハリン最北の町、オハに到着。オハはサハリン沖の海底油田開発の拠点になっている。石油関連の工場や施設、炎を噴き上げる精油所などが見えた。
 サハリンの道はオハからさらに北へと続く。シュミット半島に入り、コリンドという小さな町を通り、オハから80キロ行ったところで尽きた。
 コルサコフ港から1007キロの地点だ。小高い丘に登ると、夕日を浴びた丘陵地帯のその向こうには、オホーツク海に突き出たサハリン最北端のエリザベート岬が見えた。
 我ら「サハリン軍団」はエリザベート岬に向かって全員で万歳し、
「ハラショー(すばらしい)!」
 と、大声で叫んでやった。
 夕日に染まったサハリン最北の地を眺めていると、「もっと北へ! もっと北へ!」という衝動にかられ、さらに北の世界を旅したくなった。
 その夜はオハで泊まったが、「サハリン最北の地」到達を祝ってビールで乾杯。そのあとは真夜中まで、ウオッカパーティーで盛り上がった。

郡境でパトカーが交代
ツンドラ地帯に突入!


ニェフチェゴルスクの慰霊塔
オハの町並み


エリザベート岬を眺める


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