空知の炭鉱関連施設と生活文化
投稿日:2010年11月13日
平成の時代になっても現役炭鉱が残る
北海道遺産になっている空知の炭鉱跡めぐりは、北から南へ、空知川河畔の赤平からはじめた。
赤間炭鉱
まずは赤平駅の裏手にある旧赤間炭鉱のズリ山を見る。「ズリ山」というのは、九州の筑豊炭田でいうところの「ボタ山」と同じもの。ここでは石炭採掘時に出る不要な岩石や選炭時に出る廃石のことをズリと呼んでいる。ズリを積み上げ、出来上がったのがズリ山だ。ズリを積んだトロッコがズリ山の登り口に置かれている。
ズリ山の高さは100メートル以上あって、777段の階段で登っていけるようになっている。この日は残念ながら天気が悪くて展望を楽しめなかったが、天気がよければ山頂の展望広場からは眼下の赤平の町並みの向こうに十勝岳を望めるという。
赤間炭鉱は昭和13年の開坑し、昭和48年に閉山した。閉山後40年近い年月が過ぎ去っているので、ズリ山には、一目見ただけでは自然の山と見分けがつかないほど草木がおい茂っている。
赤平炭鉱
次に旧住友の赤平炭鉱立坑に行き、外観を眺めた。そこには「旧住友石炭赤平炭鉱立坑」の案内板が立ち、次のように説明されている。
さらに昭和13年8月には住友鉱業(株)赤平鉱業所が設置され、大規模な石炭採掘を開始し、戦時下の重要物資、戦後は日本経済復興の原動力として、石炭は大増産され、赤平一の大型炭鉱へと成長した。
昭和30年代に入り、地下350メートルから上の炭層は枯渇し、さらに深部の開発が必要になった。深部開発により生産規模の拡大をはかるため、出炭と従業員の搬送のスピード化が望まれ、住友石炭赤平炭鉱はビルド鉱として大規模投資に踏みきり、完成以降平成6年2月の閉山まで立坑は31年間、炭鉱都市赤平のシンボルとして稼動した。
櫓の高さ | 43.8m |
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立坑の構造 | 深さ650m 内径6.6m |
年間の揚炭能力 | 140万トン |
工事期間 | 昭和34年9月~昭和38年2月 |
この案内板を見てひとつ驚いたのは、巨額の投資をして立坑の工事に着手したのが昭和30年代の半ばということだ。
日本は昭和20年代の半ば頃から急速なエネルギー革命の道を突っ走り、一気に石炭から石油へと変っていった。そのなかにあってこの住友の赤平炭鉱は昭和30年代の、それも半ば以降に巨額の投資をして石炭の増産をしている。よっぽど優良な炭田だったのだろう。
赤平から歌志内へ。ここもかつては炭鉱で繁栄を謳歌した町。
歌志内の目抜き通りでスズキDR-Z400Sを停める。ここはかつての歌志内線の終着、歌志内駅前通りだ。歌志内線は日本の鉄道の黎明期、明治24年に北海道炭鉱鉄道の一部として開通した。砂川駅までの14.5キロの鉄道で、歌志内の炭鉱の石炭運搬線の役目をも果たしたが、昭和63年に廃線になった。
歌志内の炭鉱の最盛期は昭和30年代半ば頃。その当時は歌志内炭鉱、空知炭鉱など約20鉱山があったが、石炭から石油への急速なエネルギー革命で閉山が相次ぎ、町の人口は一気に半減した。
空知炭鉱・砂川炭鉱・幾春別炭鉱・奔別炭鉱
歌志内では歌志内温泉「チロルの湯」に入り、食堂で「なんこ(馬のホルモン)定食」を食べ、平成7年に閉山した空知炭鉱の立坑跡を見る。ここには空知炭鉱の社屋もあるが、その前には何台もの車が駐車していた。近くには露天掘り鉱があるとのことで、まだ操業をつづけているようだ。
歌志内からは三井の砂川炭鉱跡を見、美唄へ。ここは夕張と並ぶ三菱の2大炭鉱であった。郊外の炭鉱メモリアル公園に行くと、立坑櫓などが見られる。
空知の炭鉱跡めぐりの最後は三笠市。暮れゆく時間との勝負で、幾春別(いくしゅんべつ)炭鉱に到着したときは薄暮でかろうじて立杭跡を見ることができた。その先の奔別(ぽんべつ)炭鉱に到着したときは残念ながらすで日は暮れ、夜空を背にした立坑跡の輪郭を見ることができた。
その夜は「300日3000湯」のなつかしの温泉、江別温泉「富士屋旅館」に泊まった。江別駅前の温泉旅館。夜の7時過ぎの到着にもかかわらず、宿の女将さんは暖かく迎えてくれ、夕食まで用意してくれた。
さっそく湯につかり、湯から上がると空知の炭鉱跡を思い浮かべながら生ビールを飲み干した。北海道遺産の空知の炭鉱跡めぐりはたまらん!