環日本海ツーリング[11]
投稿日:2012年2月23日
つがるかいきょ〜うふゆげ〜しき〜
津軽半島最北端の龍飛崎を出発。海岸段丘上の灯台から龍飛漁港へと下っていく。
その途中では日本で唯一の「階段国道」を歩き、「津軽海峡冬景色」の歌碑の前では、
ごらんあれが竜飛岬
北のはずれと
見知らぬ人が 指をさす
息でくもる 窓のガラス
ふいてみたけど
はるかにかすみ 見えるだけ ………
と、石川さゆりの歌声を聞いた。
龍飛漁港の岸壁には、北津軽の金木で生まれた太宰治の文学碑が建ち、『津軽』の一節が刻み込まれている。
ここは本州の袋小路だ。読者も銘記せよ。諸君が北に向つて歩いてゐる時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ケ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。
ぼくが初めて龍飛崎に来たのは1978年。そのときの龍飛崎はまさに太宰の言葉通りの袋小路で、三厩(みんまや)からの道はここで行止まりになり、来た道を戻るしかなかった。龍飛崎から日本海の小泊に抜けられるようになったのは1984年のことでしかない。
龍飛漁港をあとにし、スズキDR-Z400Sを走らせ、国道339号で三厩へ。
三厩には松前街道終点の碑が立っている。奥州街道のうち青森から三厩までは「松前街道」と呼ばれているので、ここが奥州街道の終点になる。
その隣りには源義経渡道の地碑が立っている。
時代を超越して日本人の心の琴線に響く義経だが、平家を倒し源氏に大勝利をもたらした立役者も、兄頼朝の反感をかって都を追われてしまう。義経・弁慶の主従は命がけで奥州・平泉に逃げ落ち、奥州の雄、藤原氏三代目の秀衡の庇護を受けた。
しかし天下を手中におさめた頼朝の義経追求の手は厳しさを増した。
秀衡の死後、その子泰衡は頼朝を恐れ、義経一家が居を構えていた北上川を見下ろす高館を急襲。弁慶は無数の矢を射られ、仁王立ちになって死んだ。義経は妻子とともに自害した。文治5年(1189年)4月30日のことだった。
こうして奥州・平泉の地で最期をとげた悲劇の英雄、義経だが、なんとも不思議なことに、平泉以北の東北各地には、義経・弁慶の主従が北へ北へと逃げのびていったという「義経北行伝説」の地が、点々とつづき、残されている。
それは義経や弁慶をまつる神社や寺だったり、義経・弁慶が泊まったという民家だったり、義経・弁慶が入った風呂だったり…。その「義経北行伝説」の地を結んでいくと、1本のきれいな線になって北上山地を横断し、三陸海岸から八戸、青森へ、さらにはここ、津軽半島の三厩へとつづいている。
源義経渡道の地碑の上の高台には義経寺もある。「義経北行伝説」は三厩からさらに北へ、津軽海峡を渡り、蝦夷の地へとつづいていくのだ。
三厩からは国道280号で青森へ。奥州街道と羽州街道の分岐点の油川では、油川温泉の共同浴場(入浴料390円)に入った。
青森駅前に到着したのは21時。東京から1016キロ。すぐさま青森港のフェリーターミナルに行き、22時15分発の函館行き「ブルードルフィン」(津軽海峡フェリー)に乗船。船内ではスーパーで買った握りずしを食べ、離れゆく青森港を見ながらカンビールを飲んだ。これにて環日本海ツーリングの「東北編」、終了だ。