環日本海ツーリング[98]
投稿日:2012年6月21日
衰退した清朝、ロシア帝国の餌食になる
前回ふれた「アイグン条約」は中国・黒龍江省の「愛琿」の地名に由来している。
愛琿は中露国境を流れる黒龍江右岸の町。古くからの河川交通の要衝の地で、黒龍江を通して各地とつながっていた。
17世紀後半、清朝はロシアの侵入を防ぐため、愛琿に築城。この地を対ロシア交渉の拠点とした。
アイグン条約は1858年に結ばれた条約だが、それより150年以上も前の1689年に、清朝はロシアと「ネルチンスク条約」を締結した。この条約はロシアのチタに近いネルチンスクで締結された条約で、これによって両国の国境線の一部が確定。「アイグン条約」はそれにつづくものだ。
1858年、ロシア・東シベリア総督のムラビエフはロシアの軍事的な威嚇の下で、ロシア有利の国境画定のアイグン条約を結び、アムール川(黒龍江)の右岸が中国領、左岸がロシア領とした。さらにウスリー川から日本海に至る一帯を両国の共有地にした。
アイグン条約締結2年後の1860年、北京条約によってアイグン条約は確認され、ロシアは両国の共有地としたウスリー川から日本海に至る一帯を一方的にロシア領にした。「泥棒ロシア」
としかいいようがない領土の略奪。衰退した清朝はロシアの餌食になった。
ところで愛琿のその後だが、義和団事件(1899年〜1901年)の時にロシア軍に侵攻されて町は壊滅。ドサクサにまぎれて侵攻するのはロシアの昔からの得意技。常套手段といっていい。
それ以降、この地方の中心は黒河の町に移った。黒龍江(アムール川)をはさんで黒河の対岸はロシア・アムール州の州都ブラゴベシチェンスクになる。
2004年の「旧満州走破行」ではハルビンから小興安嶺山脈を越えて黒河に行き、さらに黒龍江沿いにバイクを走らせ愛琿まで行った。
愛琿では「愛琿歴史陳列館」を見学したが、そこではネルチンスク条約からアイグン条約、北京条約へと、清国の領土がロシアによってむしり取られていく様子(歴史)がじつによくわかった。