カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

環日本海ツーリング[126]番外編

投稿日:2012年7月20日

韓国一周2000(3)
『月刊旅』2000年12月号所収

「ソウル→巨津」(北部編)

 2000年9月9日午前6時、ソウルを出発。いよいよ緊張の北部編がはじまる。
 この北部編では、国道1号、3号、5号、7号の幹線を北へ、行けるところまで行ってみるつもりだ。
 ソウル駅前を出発点にし、漢江大橋を渡り、国道46号で仁川へ。
 仁川市内に入ると、道の尽きる月尾島まで行った。レストランやカフェの並ぶ観光地。海辺には朝鮮戦争(1950年〜1953年)の大きな転換点になった「仁川上陸作戦」の碑が建っている。それには「1950年9月15日、マッカーサー率いるアメリカと韓国の海兵隊が261隻の上陸用舟艇でもって、レッドビーチ、ブルービーチ、グリーンビーチの3ポイントに上陸した」とある。今は本土とつながっている月尾島のこの地点は、3ポイントのうちのグリーンビーチになる。
「仁川上陸作戦」の劇的な成功は、朝鮮戦争の流れを大きく変えた。北朝鮮側は当初、圧倒的に優勢で、半島を一気に南進し、釜山に迫ろうかという勢いだった。それが「仁川上陸作戦」の成功で、延びきった戦線に楔を打たれ、韓国側に急速に押し返された。もし、この「仁川上陸作戦」が失敗していたら‥、今の韓国はなかったかもしれない。
 仁川からソウルに戻ると、国道1号を北へ。軍用車両を多く見かけるようになる。検問所にも銃を持った軍人が立っている。いやがうえにも緊張感は増してくる。だが、緊張しているのはぼくだけのようで、通り過ぎていく町々の表情は穏やかなものだった。
 ソウルから50キロのムンサンへ。ここが国道1号の一番北の町になる。(現在の)京義線の終点にもなっている。町から5キロほどで、朝鮮半島南北分断の象徴といっていい臨津江に出る。
 臨津江にかかる統一大橋を渡る。この川はかつてのベトナムを南北に分断した北緯17度線のベンハイ川のようなもの。日本でも望郷の歌「イムジン川」でよく知られている。
 国道1号の新道では、統一大橋を渡った先の検問所までが自由に行ける地点で、そこから先は許可証が必要になる。軍事境界線の板門店までは15キロほどの距離である。
 統一大橋に戻ると、今度は国道1号の旧道で臨津江の展望台まで行った。足下には二重、三重に鉄条網が張りめぐらされ、銃を構えた兵士たちの警備所もある。その向こうの臨津江には京義線の橋脚跡が残され、旧国道1号の鉄橋がかかっている。ここはかつては朝鮮半島の南北を結ぶ交通の要衝の地だった。
 ムンサンに戻ると、国道37号で臨津江沿いに北東へと走る。全谷の手前で38度線を通過。朝鮮半島を南北に分断する軍事境界線は東に行くほど、38度線よりも北にずれていく。38度線を過ぎてまもなく、漢灘江のリゾート地に着く。ちょっとした観光地だ。
 緊張のつづく軍事境界線のすぐ近くにこのような場所があるとは驚きだ。漢灘江は臨津江の支流で、その合流点はほぼ38度線上になる。
 漢灘江では川遊びをする家族連れや河原にテントを張ってアウトドアーを楽しむ人、四駆でやってきて釣りを楽しむ人たちの姿を見る。
 ぼくはといえば、沈下橋をバイクで渡り、人目のつかないところで裸になり、茶色い流れの川に飛び込んだ。“臨津江”を自分の体で感じ取りたかったのだ。
 漢灘江から全谷へ。ここではものすごい人波の露天市を歩いたあと、国道3号を北へ。全谷から33キロ行ったところで、京畿道から江原道に入る。このへんまで来ると、交通量はほとんどなくなるが、国道3号は幅広い2車線のままである。道境から4キロ地点で道路は封鎖されている。北緯38度16分26秒の地点だった。
 検問所の若い兵士たちの応対はきわめて丁寧なもので、別にパスポートを調べられる訳でもなく、
「ここから先は行けませんよ。戻って下さい」
 と、ジェスチャーで示してくれた。
 全谷に戻ると、国道37号から46号に入り、春川へ。そこでひと晩、泊まった。
 春川では、“浦島太郎”の気分を味わった。ぼくは1973年の夏に、釜山を拠点にして列車、バスで「韓国一周」をした。そのとき日本海側の列車の終点、江陵からバスで束草に行き、雪岳山に登った。そのあと、束草からバスでこの町にやって来た。そしてひと晩、泊まったのだ。
 当時の春川は山間のひなびた町で、夜は暗かった。ほんとうに暗かった。
「韓国は貧しいなあ‥」
 という言葉が、思わず口から出たほど。
 それが今はどうだ。
 京春線の終着、春川駅からつづく市場街を抜けると、中央洞の商店街に入り、まばゆいばかりの照明やネオンが輝いている。華やかだ。
 町には活気が満ちあふれている。ソウルと変わらない最先端ファッションの女の子たちが町をさっそうと歩いている。名物の焼き鳥料理、タッカルビを食べさせる店がずらりと並んだ一角は、まるで東京・新宿の歌舞伎町を思わせるようなネオンの洪水。客引きのおばちゃんに手を引かれたときは、「ここはピンク街?」と錯覚したほどだ。
 30年前の韓国は深刻な食料難に見舞われていた。そのため、水曜日と土曜日の週2日は、韓国全土、どこの食堂、レストランに入っても、米の飯が食べられなかった。春川に着いた日はあいにくと土曜日で、食堂では米の飯の代わりにポロポロの麦飯が出た。このポロポロの麦飯がなかなかぼくののどを通らない。「金を払って、なんでこんなものを食うの‥」と、悲しくなるほどだった。
 今の春川の不夜城のような町の明るさ、市場の物の豊かさ、ありあまるほどの食べ物‥を見ていると、
「これが韓国の30年だったのか」
 と、あらためて思い知らされた。
 翌日、春川から北へ。今度は国道5号を行けるところまで行ってみる。
 春川から40キロで華川の町に着く。そこからさらに24キロ北に行ったところで道路は封鎖されている。北緯38度14分23秒の地点。前日の国道3号と同じように、検問所でUターンして春川に戻るのだった。
 春川からは国道46号で山岳地帯を横断。昭陽江ダムによってできた昭陽湖の湖畔を走る。
「う〜ん、これが昭陽湖か!」
 韓国最大の財閥「現代」は、「現代建設」から始まった。
 1960年代の後半、現代建設は「檀君(韓民族の伝説上の始祖。日本の神武天皇のようなもの)以来、最大規模の工事」といわれた昭陽江ダム工事を受注し、完成させ、韓国建設業のトップの座を不動のものとした。それ以降というもの、わずか10年ほどの間で「現代」は造船や重機、自動車などであっというまに世界のトップレベルに躍り出た。まさに奇跡の超高度成長。そんな世界の「HYUNDAI(現代)」の基礎を築いたのが昭陽江ダム。ここは韓国現代史の舞台なのである。
 国道46号から44号に入り、“韓国の屋根”雪岳山の岩峰群を見ながら峠を越える。
 この峠越えが豪快だ。日本の国道18号の新道(有料の碓井バイパス)で、長野・群馬県境の入山峠を越えるときとそっくりなのである。46号の分岐点から峠まではゆるやかな登りだが、峠を越えると、折れ曲がった急勾配の峠道を一気に下っていく。
 日本海に出ると、国道7号を北へ。束草、杆城と通り、韓国最北の町、巨津へ。ここから軍事境界線を真近に眺める統一展望台まで行ってみる。
 巨津から16キロ、北緯38度32分43秒の地点で道路封鎖。そこから先は、統一展望台のチケットを買わないことには行けないと検問の兵士にいわれた。検問所からわずかに戻ったところにあるチケット売り場でチケット(2000ウオン)を買ったが、今度はバイクでの通行は禁止されているといわれた。
 するとなんともありがたいことに、英語を上手に話す観光案内所の若い女性がやってきて、車の2人連れに、
「この人を乗せてあげて下さい」
 と、にこやかな笑顔つきで頼んでくれたのだ。彼女のおかげで、ソウルに近い安山からやってきたという孔さん夫妻の車に乗せてもらうことができた。
 安山で「東洋通商」という会社を経営している孔さんは、カタコトの英語を話した。安山に近い水原の市役所に勤務している奥さんは、カタコトの日本語を話した。孔さんとは英語で、奥さんとは日本語で話した車内での会話は楽しいものだった。
 孔さんは「仕事上、英語は必要なので、勉強しているのですが‥。どうも我々、韓国人はうまく英語を話せません」と、日本人と同じようなことをいう。
 作家を夢みているという奥さんは、役所の講習会で日本語を勉強している。というのは、水原は2002年の日韓共催のワールドカップの会場のひとつ。日本人も水原に多くやってくるだろうということで、日本語を勉強しているという。
 韓国最北端の地、統一展望台からの眺めは、強烈にぼくの目に焼きついた。
 軍事境界線上に延びる鉄条網の長い線。トーチカが点々と見える丘陵地帯の左手には、韓国人の憧れの山、金剛山(1638m)が雲を突き破ってそびえていた。孔さん夫妻も金剛山を見たくてここまでやって来た。展望台から金剛山までは、わずか16キロでしかないという。
 孔さんは北朝鮮産のワインや焼酎などを売っている展望台の売店で、2冊の金剛山の写真集を買った。さらに“海金剛”を描いた記念メダルを買ってぼくに持たせてくれた。それには「T・KASORI 2000・9・10」と彫り刻まれていた。韓国最北端の地の思い出に、孔さん夫妻の思い出に、ぼくはそれをありがたく受け取った。
 金剛山は標高1639メートルの毘蘆峰を主峰と大山塊で、東西60キロ、南北40キロのエリアに12000にも及ぶ岩峰があるという。金剛山の西部が女性的な山並みの内金剛、東側が男性的な外金剛で、海金剛とは外金剛の山並みが海に落ちたあたりの海岸地帯をいう。統一展望台から見下ろす海金剛は朝鮮半島きっての景勝地といってもいい。風の強い日で、日本海には無数の白い波頭がたっていた。
 孔さん夫妻と別れ、巨津に戻る。
 イカ釣り船の並んだ港前の食堂で夕食。イカの刺し身を頼む。店のおかみさんに「こうするのよ」と教えられるままに、イカの刺し身をほかの具と一緒にご飯に混ぜて食べる。韓国ではどこに行っても、このビビンバップ方式が食べ方の基本になっている。小ネギを刻んで入れた貝汁はさっぱりした味つけで、飲み干すと、おかみさんはおかわりを持ってきてくれた。食後にはコーヒーを入れてくれた。
 食堂のおかみさんの笑顔とやさしさが心に残り、離れがたくてその夜は巨津で泊まった。十三夜の大きな月が韓国最北の海を明るく照らしていた。


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