カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本巡礼[177]

投稿日:2014年11月8日

「そば切り」発祥の地

西国三十三ヵ所めぐり 2009年5月14日

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国道20号の塩尻峠

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JR塩尻駅

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国道153号沿いの塩尻宿

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塩尻宿の本陣跡

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平出の一里塚

 下諏訪宿を出発。諏訪盆地を一望する絶景の塩尻峠を越えて塩尻宿へ。宿場町は三州街道の国道153号に沿って延び、本陣、脇本陣跡には碑が立っている。

 塩尻宿を過ぎ、国道19号に合流する手前には平出の一里塚がある。中山道の両側に残った一里塚で、「両側の一里塚」というのは信濃路ではここが唯一のものになる。

 一里塚は慶長9年(1604年)に徳川2代目将軍、秀忠の命によって築かれた。重臣たちを「一里塚奉行」に任命するほど、徳川幕府は「江戸五街道」の整備に力を入れた。そして3年後の慶長12年には完成させた。明治以降、多くの一里塚が消えていった中で、平出の一里塚はほぼ完全な形で残った。5間(9m)という道幅も当時のままだ。

 洗馬宿からは国道19号沿いの宿場をめぐる。それらの宿場はすべて旧道沿いにある。一歩旧道に入ると、急に時間が止まったかのようで、「木曽高速」の異名をとる国道19号を走っている時とはまったく違う、別世界に入り込んだような感動をおぼえる。

 洗馬宿には善光寺西街道との追分が残っている。ここで中山道と分かれた善光寺西街道は郷原宿、村井宿、松本宿、岡田宿、刈谷原宿、会田宿、乱橋宿、西條宿、青柳宿、麻績宿、桑原宿、稲荷山宿と通り、篠ノ井宿で北国街道に合流し、善光寺に通じている。いつの日か、善光寺西街道の宿場をたどってみよう。

 洗馬宿の次の本山宿は「そば切り」発祥の地。ここではそば処「本山そばの里」で「そばがき」と「盛りそば(ざるそば)」を食べた。我々が今の時代、「そば」といっているのはソバ粉を麺に打った「そば切り」のことで、それ以前はソバ粉を湯で練り固めた「そばがき」が一般的だった。本山宿で生み出されたそば切りは中山道を通して、またたくまに日本中に広まった。

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洗馬宿の追分 洗馬宿 「本山そばの里」の「そばがき」と「盛りそば」

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