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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本巡礼[230]

投稿日:2015年2月13日

天下分け目の天王山

西国三十三ヵ所めぐり 2009年5月20日

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東寺前の交差点

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京都・大阪府境の洞ヶ峠

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正面に天王山を見る

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山崎聖天の観音寺を参拝

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天王山への山道

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天王山の竹林

 東寺の参拝を終えると、国道1号で京都・大阪府境の洞ヶ峠まで行く。

 洞ヶ峠といえば「日和見」の代名詞。織田信長が討たれた本能寺の変(1582年)後の山崎の合戦で、明智光秀に加勢を頼まれた筒井順慶が峠上で戦況が定まるまで傍観していたところ。この故事によって後世、日和見主義のことをを「洞ヶ峠を決め込む」といわれるようになった。

 洞ヶ峠で折り返し、来た道を引き返し、東寺まで戻る。

 次に西国街道の国道171号で京都・大阪府境の大山崎まで行く。

 大山崎は今でこそ京都の一番はずれになってしまったが、かつては水運の要であり、京都と大坂(大阪)を結びつける商業の中心地で、「山崎商人」は繁栄を謳歌した。その繁栄の歴史を振り返ってみると、山崎の上に「大」をつける気分が納得できる。

 豊臣秀吉軍が明智光秀軍を破って天下を取ったこの地は、まさに「天下分け目の天王山」。京都盆地の出入口に位置する天王山は、千年の都、京都の首根っこのようなところで、そこを押えるということは日本を掌握することにほかならない。

 そこには次のように書かれた「山崎合戦」の案内板が立っている。

「天正10年(1582年)6月2日、京本能寺で織田信長が討たれた。その報は2日後、中国地方備中高松城攻めを信長から命じられていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)の元にも届いた。秀吉は急きょ、毛利氏と和睦を成し、山陽道、西国街道をひた走り京を目指した。一方、主君信長を討ち、京、近江を制圧した明智光秀は秀吉が京を目指して兵を移動させていることを知り、軍勢を摂津、河内境へと進めた。6月13日午後4時頃戦いは始まった。秀吉軍3万数千、光秀軍1万数千の軍勢が激突した。戦いは短時間で決し、軍勢に勝る秀吉軍の一方的な勝利に終わった。敗北を知った光秀軍の兵たちは方々に逃散し、光秀も夜陰に乗じて近江へと逃げていった。一行は桃山丘陵を越えた小栗栖で土民の襲撃を受け、光秀は竹槍に掛かり乱世の戦いに明け暮れした短い生涯に終止符を打った。合戦直後、秀吉は天王山一帯に城を築き、大山崎から天下統一へと乗り出すことになる」

 そんな歴史を秘める大山崎から天王山(270m)に登った。山頂には酒解神社。足下を新幹線が轟音を残して走り過ぎていく。JR線、阪急の電車も次々に通り過ぎていく。頻繁に電車の音が聞こえてくる天王山だ。

 天王山の下で桂川、宇治川、木津川の京都盆地の3川が合流し、淀川となって大阪平野に流れ出ていく。対岸には男山(143m)。男山の山頂には源氏の氏神の石清水八幡宮がまつられている。天王山と男山にはさまれた大門のような間を関西の大河、淀川は大阪湾へと流れ下っていくのだ。

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天王山の道標 山崎合戦の絵図 天王山の山頂から男山を見る

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