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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本巡礼[271]

投稿日:2015年5月6日

長浜探訪2

西国三十三ヵ所めぐり 2009年5月24日

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長浜駅前の秀吉と三成の像

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石田町の石田邸の案内標

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石田町の石田三成屋敷跡

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石田町の石田神社

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石田神社の供養塔

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鉄砲鍛冶の国友町

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国友鉄砲の里資料館

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ズラリと並んだ火縄銃

 長浜の北国街道を歩き、名物の「ふなずし」を食べると、JR北陸本線の長浜駅に戻った。駅前には豊臣秀吉と石田三成の「出逢い」像が建っているといったが、アドレスを止めて、もう一度、2人の像を見た。秀吉はまだまだ若いし、三成は頭のよさそうな少年だ。三成は秀吉に出会ってからというもの、おおいにかわいがられ、やがて秀吉の五奉行の一人として重用されるようになる。秀吉の死後、関ヶ原の合戦では西軍を率いて東軍の徳川家康と戦い、破れ去った。そんな三成は長浜郊外の伊吹山を間近に眺める石田町の生まれだ。

「長浜探訪」の第2弾目に出発。長浜駅前からまっすぐ東へ、まずは石田三成の生まれた石田町に行く。そこには石田三成の屋敷跡があり、石田三成とその親族、家臣たちの供養塔がある。

 次に北陸道の長浜ICに近い国友町へ。

「国友」は日本の歴史を劇的に変えた舞台だ。日本(種子島)に鉄砲が伝来したのは天文12年(1543年)。なんとその翌年には堺(大阪)や根来(和歌山)とともに、ここ国友でも鉄砲を作りはじめていた。日本人の新しい技術を取り入れる能力、それを自分のものにしてしまう能力の高さには驚異的なものがある。

 国友は刀鍛治の里だった。国友の鍛治職人は「ネジ」を開発した。それによって大量の鉄砲を製造できるようになった。鉄砲に真っ先に目をつけたのが織田信長で、国友に大量の鉄砲を作らせた。天正3年(1575年)の「長篠の戦い」で信長はその鉄砲を使って、当時、最強軍団といわれた甲州の武田軍を打ち破り、戦国時代の流れを大きく変えた。

 鉄砲製造の最盛期、国友には70軒の鍛冶屋と500人以上の職人がいたという。今はひっそりと静まりかえっている国友だが、集落内には「国友鉄砲の里資料館」(入館料300円)がある。館内には国友産の火縄銃がズラリと並んでいる。実際に火縄銃を持てるコーナーもあるが、ズッシリと重い。それは日本の歴史を実感させる重さだった。

「国友鉄砲の里資料館」には「国友鉄砲鍛冶」の石碑が建っている。それには司馬遼太郎の『街道をゆく』の次のような一文が彫り刻まれている。

 国友村に次郎助という鍛冶がいた。年の頃はわからないが、若者のような気がする。かれは螺子についてさまざまに想像し、試みに刃の欠けた小刀でもって大根をくりぬき、巻き溝つきのねじ形をとりだし、もう一度大根にねじ入れてみた。これによって雄ねじと雌ねじの理をさとり、老熟者に説明すると、一同、大いに次郎助をほめた。その名が「国友鉄砲記」にとどめられていることからみても、かれの名と功は感嘆されつつ伝承したものかとおもえる。

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