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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本巡礼[283]

投稿日:2015年5月29日

「近江商人」の故郷

西国三十三ヵ所めぐり 2009年5月25日

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「旧伴家」を見学

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帖場

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おくどさん。中央に釜と蒸籠

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祝いの膳

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左義長の飾りつけ

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「旧西川家」を見学

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「松前屏風」

 近江八幡には古い町並みが残っている。ここは「近江商人」の故郷。金沢の「近江町市場」のある近江町は城下町金沢でも最も古い商人町だが、近江商人がその基をつくったので近江町の名がある。北前船で上方とつながっていた蝦夷の松前の商業をになったのも近江商人。江戸時代、江戸の商業を牛耳っていたのは「伊勢商人」だが、近江から伊勢へと移り住んだ近江商人が伊勢商人の基になっている。

 そんな近江商人発祥の地の近江八幡には、「近江商人町並」が保存されている。そこにある商家の「旧伴家」と「旧西川家」を見学した。

 まずは「旧伴家」。入口の案内板には「近江商人」について次のように書かれている。

 近江商人というのは、江戸時代に近江中郡(蒲生郡・神崎郡・愛知郡)、ことに八幡、日野、五個荘を中心とする地域に根拠をおいて、行商と出店によって主として江戸、京都、大阪、さらには全国各地、遠くは北海道に至るまで逞しく進出し、めざましい活躍をなした有力商人たちで、そのうち日野商人は漆器類を持って、のちには薬・茶・呉服をあきない、関東にも出店して酒・醤油の醸造をなしたりした。八幡商人は蚊帳を諸地方で行商して発展し、五個荘商人は雑貨・紅花・近江上布・編笠などを持ち下り、愛知川商人は近江上布、長浜商人はちりめん、その他の取引で成功した。(略)

 近江商人は時勢を見抜くのに敏で、八幡商人を中心として、海外雄飛したものも多く、なかでも西村太郎右衛門は遠く安南(ベトナム)に渡って交易に従事すること30年、正保4年(1647年)に長崎に帰ったが、8年前に布かれた鎖国令で入国が許されず、やむなく持ち船を絵師、菱川孫兵衛に写させ、故郷の比牟礼八幡宮に奉納した『安南渡海の図』の絵馬が国宝として残っている。

「旧伴家」では帳場や台所、祝いの膳、左義長の飾りつけなどを見てまわった。台所の使いこまれた「かまど」には目を引かれた。中央に釜と蒸籠、左に釜、右に茶釜がのっている。かまどは「おくどさん」と呼ばれているとのことだが、関東の「かまど」は関西では「くど」になる。

 次に「旧西川家」を見学。西川利右衛門家は江戸時代から明治前半にかけて栄えた商家で、主に畳表や蚊帳などを扱った。母屋は宝永3年(1706年)に建てられたもので、居室部は間口が6間半(1間は約1・8m)、奥行きが9間で、間取りは中央に「通り土間」、表に面して「店」を構え、後方は2列の部屋割りになっている。2階は表側の半分に造られ、畳敷きの2部屋のほかは板敷きの「つし」になっている。座敷は間口2間半、奥行が5間で母屋の北側に接し、奥座敷は数寄屋風に造られている。一方、土蔵は天和年間(1681年〜1683年)のもの。大壁造りの本瓦葺で、内部は3階になっている。

「旧西川家」で興味深かったのは、座敷に置かれた「松前屏風」。日本海航路の北前船で結びついていた蝦夷の松前の賑わいを描いた屏風絵だが、近江商人と松前の関係を象徴しているかのようだった。

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