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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本巡礼[323]

投稿日:2016年2月29日

明智光秀生誕の地

西国三十三ヵ所めぐり 2009年5月31日

JR恵那駅前を出発

JR恵那駅前を出発

岩村に到着

岩村に到着

岩村の古い町並み

岩村の古い町並み

岩村城址を歩く

岩村城址を歩く

明智鉄道の終点、明智駅

明智鉄道の終点、明智駅

明智駅前の「日本大正村」の案内図

明智駅前の「日本大正村」の案内図

明智の「明智光秀産湯の井戸」

明智の「明智光秀産湯の井戸」

京都の本能寺の山門

京都の本能寺の山門

大津の西教寺の明智光秀とその一族の墓

大津の西教寺の明智光秀とその一族の墓

 5月31日。「恵那プラザホテル」の「サンドイッチ&コーヒー」の朝食を食べ、7時30分、恵那を出発。JR中央本線の恵那駅前から走り出す。中山道で次の中津川宿に行く前に、国道257号で岩村へ、岩村からはさらに国道363号で明智まで行ってみることにする。恵那から岩村、明智までは明智鉄道が通っている。

 恵那から岩村までは国道257号で10キロほど。小盆地の町、岩村は松平氏3万石の城下町。古い町並みが残り、中世からの城跡を歩いた。その頃から雨が降りはじめた。

 次に岩村から国道363号で明智へ。雨をついてアドレスを走らせる。岩村から明智までも10キロほど。明知も岩村同様、小盆地の町。連続する盆地の風景は日本という国の縮図のようなものだ。

 明智に到着すると、明智鉄道の終着駅、明智駅前でアドレスを止めた。駅前には「日本大正村」の案内図。明智には明知城があった。その「千畳敷砦」の案内板には次のように書かれている。

 鎌倉時代の宝治元年(1247年)、遠山景重によって明知城が築城された。明知城の西南に当たるこの台地を戦略上重要な地点として、千畳敷砦が築かれたと伝えられている。この砦の東を走る南北街道を一望し、いざ戦いともなれば城山の各砦と呼応して前線基地となり、出城の役割を果たし、物見台、狼煙台などもあり、戦略上の拠点の一つであったと考えられている。南北街道の盆地への出入口や、中馬街道を牽制するとともに、別の尾根からは三河の山並みが望見できる。天正年間、遠山家の一族、串原五郎経景がこの砦を守ったとも伝えられている。

 明智といえば明智光秀生誕の地だ。

 明知城の千畳敷砦の一角に「明智光秀産湯の井戸」がある。伝承によれば明智家11代目の光秀は、大永6年(1526年)、ここで生まれたという。

 今回の「西国33ヵ所巡り」の出発点の京都では、真っ先に織田信長が明智光秀に討たれた本能寺に行った(第192回目参照)。

(本能寺は)法華宗本門流の大本山で、応永22年(1415年)、日隆上人によって創建された。当初は本応寺と称していたが、永享5年(1433年)、六角大宮に移転した際、本能寺と名を改め、さらに天文14年(1545年)、油小路蛸薬師一帯に広大な寺域を得て大伽藍を復興した。天正10年(1582年)、織田信長が明智光秀によって襲撃され、自刃したところとして名高いが、その折、30余りの宿坊を構えた大伽藍は灰燼に帰した。その後、豊臣秀吉の都市計画により、天正17年(1589年)、現在の地に移転再建されたが、江戸時代後期の天明・元治の大火によって堂宇は焼失。現在の本堂は昭和3年(1928年)に再建されたものである。

「本能寺の変」は日本の歴史を大きく変えた出来事。「日本の歴史上の10大事件」にも入るかのような出来事だ。

 明智の「明智光秀産湯の井戸」を見ていると、京都の本能寺や、明智光秀の墓のある滋賀県の西教寺(大津市坂本)が思い出されてならなかった。

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