奥の細道紀行[14]
投稿日:2016年8月12日
7泊した須賀川宿
まづ『白河の関いかに越えつるや』と問ふ。
『長途の苦しみ、心身疲れ、かつは風景に魂奪われ、懐旧に腸を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。
風流の初めや奥の田植え歌
むげに越えんもさすがに』
と語れば、脇・第三と続けて、三巻となしぬ。
この宿のかたわらに、大きなる栗の木陰を頼みて、世をいとう僧あり。橡拾う太山もかくやとしづかにおぼえられて、ものに書き付けはべる、その詞、
栗という文字は、西の木と書きて、
西方浄土に便りありと、行基菩薩
の一生杖にも柱にもこの木を用いたまふとかや。
世の人の見付けぬ花や軒の栗
芭蕉は奥州街道の須賀川宿に到着すると、相良伊左衛門(乍単斎・俳号は等窮)宅を訪ね、ここで7泊している。ということで須賀川は「奥の細道」の重要な舞台になっている。相良家は慶安年間(1648年〜1652年)の頃、白河藩より代官に起用されていた郷士の筆頭格の家。等窮は初代代官の5男。分家した相良貞栄の長男として生まれ、問屋をしていた。等窮は芭蕉よりも6歳、年上。江戸で会って以来、10年ぶりの再会となった。
さてそんな須賀川では須賀川市役所前の「芭蕉記念館」を見学し、芭蕉も参拝した市内の十念寺に行った。そこには、
風流の初めや奥の田植え歌
の、芭蕉の句碑が建っている。
さらに芭蕉も須賀川滞在中に行ったという阿武隈川の名瀑、乙字ヶ滝を見にいった。ここは「ミニ版ナイアガラ滝」といった風情。滝のわきには芭蕉と曽良の石像が建っている。
須賀川滞在中の「曽良随行日記」は次ぎのようになっている。
廿ニ日 | 須賀川、乍単斎宿、俳有。 |
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廿三日 | 同所滞留。晩方へ可伸ニ遊、帰ニ、寺々八幡を拝。 |
廿四日 | 主ノ田植。昼過ヨリ可伸庵ニテ会有。会席、そば切り、祐碩賞之。雷雨。暮方止。 |
廿五日 | 主物忌、別火。 |
廿六日 | 小雨。 |
廿七日 | 曇。三つ物ども。芹沢ノ滝へ行。 |
廿八日 | 発足ノ筈定ル。矢内彦三良来タリテ延引ス。昼過ヨリ彼宅へ行クニ及暮。十念寺・諏訪明神へ参詣。 |