カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

奥の細道紀行[15]

投稿日:2016年8月14日

宿ムサカリシ

福島県郡山市/2009年

 須賀川から郡山へ、スズキST250を走らせて芭蕉の足跡を追う。

 芭蕉は7泊した須賀川を出発すると、まずは逆方向の南へ。須賀川滞在中に行く予定にしていた石河滝(乙字の滝)に向かったのだ。須賀川滞在中はあまり天気がよくなく、いろいろと約束事などが入ったりして、観瀑どころではなかったようだ。

 出発した日は上天気なので、石川の滝へと足を向けた。

 芭蕉は滝見を終えたあとは奥州街道に戻らず、阿武隈川右岸の道で小作田を通って守山経由で郡山に向かっている。

 ということでカソリも須賀川市内から国道118号を南へ。乙字ヶ滝と芭蕉&曽良像、芭蕉句碑を見、滝見不動堂に参拝した。

 乙字ヶ滝の芭蕉の句碑は次ぎの句だ。

  さみだれは滝降りうづむみかさ哉

 乙字ヶ滝からは阿武隈川右岸の道を走り、小作田から守山へ。

 須賀川と郡山の市境を越えると守山。ここには守山温泉がある。

 芭蕉は入らなかったが、守山温泉「白水館」の湯に入っていく。泉質自慢の湯に入り、さっぱりすっきり。ここにはもう1軒、「七海荘」がある。

 守山温泉から県道54号を行き、国道49号にぶつかる山中の交差点に、芭蕉も参拝した古社の田村神社がある。急な石段を上り、大太鼓のぶらさがる大門(仁王門)をくぐり、田村神社を参拝した。神社に仁王門があることからもわかるように、ここはかつては神仏混淆で、芭蕉がやってきた当時は「大元明王」と呼ばれていた。

 大元明王は田村神社と善法院、帥継院の2寺を合わせた大霊場で、門前には多数の宿坊が軒を連ねていた。それが明治維新後の廃仏毀釈で寺の方は跡形もなく消え去り、田村神社もすっかり寂れてしまった。田村神社の参拝を終えると、国道49号で郡山の町に入っていった。

 この日の曽良の「随行日記」では、克明にその行程が書き記されている。

廿九日  快晴。巳中剋、発足。石河滝見ニ行。須賀川ヨリ辰巳ノ方壱里半計有。滝ヨリ十余丁下ヲ渡リ、上ヘ登ル。歩ニテ行バ、滝ノ上渡レバ余程近由。阿武隈川也。川ハバ百二三十間も有之。滝は筋かへ、百五六十間も可有。高サ二丈、壱丈五六尺、所ニヨリ壱丈斗ノ所も有之。

 と、石河滝(乙字ヶ滝)の大きさを感動の面持ちで書いている。

 さらに「随行日記」はつづく。

     それヨリ川ヲ左ニナシ、壱里斗下リテ小作田と云馬次有。ソレヨリ弐里下リ、守山宿と云馬次有。御代官諸星庄兵へ殿支配也。問屋善兵へ幽碩ヨリ状被添故、殊之外取持。又、本実坊・善法寺へ矢内弥市右衛門状遣ス。則、善兵へ、矢内ニテ、先大元明王へ参詣。裏門ヨリ本実坊へ寄、善法寺へ案内シテ本実坊同道ニテ行。雪歌仙絵、讃宗鑑之由、見物。内、人丸・定家・業平・素性・窮恒、五ふく・智証大しナラビニ金岡がカケル不動拝ス。探幽ガ大元明王ヲ拝ム。守山迄ハ乍単ヨリ馬ニテ被送。昼飯調テ被添。守山ヨリ善兵へ馬ニテ郡山迄送ル。カナヤと云村ヘかかり、阿武隈川を舟ニテ越、本通日出山ヘ出ル。守山ヨリ郡山ヘ弐里余。日ノ入前、郡山ニ到テ宿ス。宿ムサカリシ。

 これにある小作田宿、守山宿というのは石川と須賀川、郡山を結ぶ石川街道の宿場ということだろう。大元明王(田村神社)参詣の様子も詳しく書かれている。そして守山から奥州街道の郡山へ。日出山宿は奥州街道の宿場。さらに小原田宿を通り、その次が郡山宿。奥州街道でいうと、須賀川宿→笹川宿→日出山宿→小原田宿→郡山宿という順になる。

 芭蕉は金屋で舟に乗り、阿武隈川の対岸の日出山宿に渡っているが、今、そこには国道49号の金山橋がかかっている。

 曽良は郡山宿の宿を「ムサカリシ」と書いている。当時の郡山宿は寒村で、きっと粗末な宿しかなかったのだろう。

須賀川を流れる阿武隈川

▲須賀川を流れる阿武隈川

守山温泉「白水館」の湯に入る

▲守山温泉「白水館」の湯に入る

田村神社の石段

▲田村神社の石段

田村神社の仁王門

▲田村神社の仁王門

田村神社の拝殿

▲田村神社の拝殿

郡山の駅前

▲郡山の駅前

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