奥の細道紀行[31]
投稿日:2016年9月15日
一関に至る
石巻からは芭蕉の足跡を追って一関へ、そして平泉へと向かっていく。
『おくのほそ道』の「石の巻」の最後に、
「袖の渡り・尾ぶちの牧・真野の萱原などよそ目に見て、遥かなる堤を行く。心細き長沼に添うて、戸伊摩という所に一宿して、平泉に至る。その間二十余里ほどとおぼゆ。」
とあるように、芭蕉は石巻から北上川の堤防上の道を歩き、戸伊摩(現在の登米)で1泊し、平泉に向かっている。
石巻駅近くのビジネスホテルを出発すると、前日と同じように旧北上川の河岸を走り、田代島、網地島行きの船を見る。そして旧北上川の河口にかかる日和大橋を渡り、石巻漁港へ。魚市場内の「斉太郎食堂」で朝食。「カツオの刺身定食」(890円)を食べたが、安くて美味くてボリューム満点。「おー、これぞ石巻!」と思わず声が出るほど。
満ち足りた気分でスズキST250を走らせ、一関街道(国道45号)で柳津に向かう。その途中、飯野川橋で北上川を渡る。現在の北上川はこの地点で大きく東へと向きを変えて太平洋に流れ出るが、かつてはそのまま南流し、石巻湾に流れ出ていた。
芭蕉と同じように北上川の堤防上を走り、柳津へ。国道45号はここから横山峠を越えて三陸海岸の気仙沼へと通じている。一関街道は柳津からは国道342号になる。
悠々とした流れの北上川を見ながら走り、芭蕉が1泊した登米に到着。ここは登米伊達氏2万1000石の城下町。北上川の水運で栄えた。武家屋敷などの城下町時代の建物のみならず、明治・大正の洋風建物も数多く残っている。
明治期に建てられた「警察資料館」を見学。旧車のパトカーや白バイが展示されている。明治期の監獄内にも入れる。この建物は旧登米警察署の庁舎で明治22年に建てられた。2階建ての洋風建築の警察署で、洒落たバルコニーもある。80年間も警察署として使われた。登米にはそのほか、国の重要文化財にもなっている旧登米高等尋常小学校の校舎などもある。
登米からさらに一関街道(国道342号)を行く。北上川の堤防上の道。米谷橋のたもとで国道398号と交差するが、北上川はここで大きく湾曲している。「北上の大迂回部」を右手に見ながら国道342号を走る。やがて北上川とは離れ、宮城県から岩手県に入っていく。
花泉町(一関市)の金沢を過ぎたところの分岐で一関街道の国道342号と別れ、旧奥州街道の有壁宿に通じる道を行く。このあたりは県境が入り組んでいて、岩手県からもう一度、宮城県に入る。JR東北本線の有壁駅前でST250を停め、カンコーヒーを飲んでひと息入れたところで、有壁宿の本陣跡に行く。この本陣には松前藩、八戸藩、盛岡藩、一関藩の藩主が参勤交代の際、宿泊や休憩をしたところ。奥州街道に残る唯一の本陣で、当時の建物がそのまま残されており、国の史跡に指定されている。
有壁の本陣前から旧奥州街道を行ったが、じきに山中に入り、道はやがて徒歩のみ可能な山道に変わる。そこで折り返して有壁に戻り、国道4号に出た。再度、宮城県から岩手県に入り、奥州街道で一関に着いたが、芭蕉は一関街道で一関の町に入っている。芭蕉の通った道は現在の一関街道(国道342号)より1本東側の道で、それが一関街道の旧道になる。
芭蕉は一関で1泊しているが、『おくのほそ道』ではまったくここについては語られていない。
一関駅前に宿をとると、田村氏3万石の城下町、一関をめぐる。
まずは日本武尊をまつる配志和神社へ。うっそうとした杉木立の参道を歩く。拝殿前には樹齢千年の夫婦杉。境内には芭蕉の句碑が建っている。
次に一関城跡の釣山公園へ。ここは桜の名所で山頂は千畳敷の広場になっている。釣山公園から暮れなずむ一関の町並みを見下ろした。
石巻から一関までの芭蕉の行程は、曽良の「随行日記」では次のようになっている。
十一日 | 天気能。石ノ巻ヲ立。宿四兵ヘ、今一人、気仙ヘ行トテ矢内津迄同道。後、町ハヅレニテ離ル。石ノ巻、鹿ノ股、飯野川渡有。矢内津マデ一リ半。戸いま、宿不借、ヨッテ検断告テ宿ス。 |
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十二日 | 曇。戸いまを立。上沼新田町、安久津、金沢、一ノ関黄昏ニ着。合羽モトヲル也。宿ス。 |
矢内津というのは柳津のこと。芭蕉は石巻の旅籠の主人、四兵衛の案内で、気仙沼まで行く旅人と一緒に柳津まで行った。柳津の町外れで別れ、登米へ。「戸いま」とあるのが登米のことだ。登米では宿に泊ることができず、村役人の「検断」に頼み込んで泊めてもらっている。翌日は登米を出発し、金沢を通って一関に向かったが、「合羽をモトヲル」とあるように、相当、激しく雨に降られたようだ。このような旅の辛さもあってか、芭蕉は一関については、何もふれていない。