奥の細道紀行[32]
投稿日:2016年9月17日
時代を超え心に響く義経主従
一関では駅前の「東横イン」に泊まった。翌朝は朝食を食べて出発。国道4号で平泉へ。旧道に入り、平泉駅前でスズキST250を停めた。駅前には名物「わんこそば」の「芭蕉館」がある。
平泉駅前の案内図を見ながら、「さー、どのようにして平泉をまわろうか…」とプランニング。この時間がすごく楽しい。
その結果、芭蕉と同じようにまずは高館へ。東北本線の線路わきにある「卯の花清水」を飲んでいく。ここには次のように書かれている。
元禄2年五月、芭蕉が門人曽良とこの地を訪れ、「夏草」と、「卯の花」の二句を残した。
白く白く卯の花が咲いている。ああ、老臣兼房奮戦の面影がほうふつと目に浮かぶ。
古来、ここにこんこんと霊水がわき、里人、いつしか、卯の花清水と名づけて愛用してきた。
行きかう旅人よ、この妙水をくんで、心身を清め、渇をいやし、「卯の花」の句碑の前にたたずんで、花に涙をそそぎ、しばし興亡夢の跡をしのぼう。
高館に登り、拝観料の200円を払って高館義経堂を参拝。ここには義経の木像がまつられている。北上川を見下ろす高館には源義経の屋敷があったが、文治5年(1189年)閏4月30日、義経は藤原泰衡の兵に襲撃され、この地で自害した。
高館には『おくのほそ道』の「平泉」の項が記された芭蕉碑が建っている。
時代を超越して、日本人の心の琴線に響く義経。だが平家を倒し、源氏に大勝利をもたらした立役者も、兄頼朝の反感をかって都を追われてしまう。義経・弁慶の主従は命がけで奥州・平泉に逃げ落ち、奥州の雄、藤原氏三代目の秀衡の庇護を受けたのだ。
しかし天下を手中におさめた頼朝の義経追求の手は厳しさを増した。
秀衡の死後、その子泰衡は頼朝を恐れ、義経一家が居を構えていた北上川を見下ろす高館を急襲。弁慶は無数の矢を射られ、仁王立ちになって死んだ。義経は妻子とともに自害した。文治5年(1189年)4月30日のことだった。
こうして奥州・平泉の地で最期をとげた悲劇の英雄、義経だが、義経・弁慶の主従はさらに北へ北へと逃げのびていったという。平泉以北の東北各地には、そんな「義経北行伝説」の地が鎖状に点々とつづき、残されているのだ。
それは義経や弁慶をまつる神社や寺だったり、義経・弁慶が泊まったという民家だったり、義経・弁慶が入った風呂だったり。その「義経北行」伝説の地を結んでいくと、1本のきれいな線になって北上山地を横断し、三陸海岸から八戸、青森へ、さらには津軽半島の三厩へとつづいている。三厩には義経寺がある。
「義経北行伝説」はさらに北へとつづく。
津軽海峡を越えて、義経・弁慶の主従は対岸の白神岬から日高の平取へ。
平取には義経神社があり、今でも人々の篤い信仰を集めている。
伝説では平取町二風谷のアイヌ酋長の娘、チャレンカとは激しい恋に落ちたという。
積丹半島に近い日本海側の弁慶岬には、弁慶の銅像が建っている。高下駄をはき、ナギナタを右手に持っている。岬の近くには「弁慶の土俵跡」が残されている。義経主従がこの地に滞在したとき、地元のアイヌ人と相撲をとった土俵跡なのだという。弁慶のはいた下駄をまつる弁慶堂もある。
義経を守り抜いた弁慶の体力と気力を神業と信じ、弁慶を守護神としてあがめる風習がこの地には強く残っている。弁慶岬の弁慶像はそのシンボルなのだ。
弁慶岬の北の雷電岬には、「刀掛岩」と呼ばれる大岩がある。それも義経主従がこの地で休憩したときに、弁慶の刀があまりにも大きくて置くことができず、それではと「エイッ」とばかりにひねってつくった岩の刀掛なのだという。「薪積岩」もある。弁慶が背負っていた薪をおろした所が岩に変ったのだという。
義経主従は積丹半島の神威岬から樺太へと船出した。そこからアムール川の河口に渡っていったという。二風谷のアイヌの酋長の娘チャレンカは、義経と出会ってからというもの、すっかり恋のとりこになり、義経にひと目会いたくて神威岬までやってきた。だが義経一行はすでに船出したあとで、嘆き悲しんだチャレンカは海に身を投げた。彼女の体は岬先端の海に浮かぶ神威岩に変ったという。
なんとも壮大で、ロマンに満ちあふれた「義経北行伝説」だが、これは根も葉もないつくり話とは違うと思う。でなければ、これだけキレイな線になって、その線上にこれだけの伝説の地が残るはずがない。
義経・弁慶が生きていたらよかったのに…という日本人の判官贔屓がそれに拍車をかけ、より壮大な伝説になったのではないかとぼくはそう思っている。