奥の細道紀行[33]
投稿日:2016年9月19日
平泉探訪
平泉では高館のあと「平泉郷土館」を見学。「みちのくの中央の尊い寺」、それが「中尊寺」。みちのくの北から南まで笠塔婆を1町(約109m)に1本づつ、合計5000本を立てて中心を測り、その地に建てたのが中尊寺なのだという。「平泉郷土館」にはそんな説明があった。
「平泉郷土館」の見学を終えるといよいよ中尊寺へ。
中尊寺の参道を歩いていくと左手には「弁慶堂」があるが、そこには弁慶像がまつられている。弁慶堂には大勢の人たちが押しかけていた。弁慶はいつの時代にも人気がある。弁慶堂のあとは積善院の「奥の細道展」を見学した。
中尊寺の本堂を参拝したあと、一番奥の「金色堂」へ。その途中にはいくつものお堂がある。
「金色堂」(拝観料800円)はコンクリート造りの鞘堂で覆われている。その中にまばゆいばかりの金色の光を放つ金色堂がある。
天治元年(1124年)の建立で、中尊寺創建当時の唯一の遺構。金色の堂は極楽浄土をあらわしている。本尊は阿弥陀如来で、その前には観音菩薩と勢至菩薩がまつられている。中央の須弥壇(しゅみだん)の中に藤原三代の清衝、基衝、秀衝のミイラが眠っている。
同じ拝観券で見られる「讃衝蔵(さんこうぞう)」には奥州藤原氏の遺宝、国宝・重要文化財が3000点以上、展示、収蔵されている。
金色堂のあとは芭蕉句碑と芭蕉像、旧覆堂、白山神社、白山神社の能楽堂とまわり、中尊寺の参拝を終えた。
卯の花に兼房見ゆる白毛かな 曽良
かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散り失せて、珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、すでに頽廃空虚の叢となるべきを、四面新に囲みて、甍を覆いて風雨を凌ぎ、しばらく千歳の記念とはなれり。
五月雨の降り残してや光堂
「二堂開帳す」の2堂とは光堂と経堂で、そのうちの光堂が金色堂のことになる。
「四面新に囲みて」とあるように、金色堂は昔から鞘堂(覆堂)で覆われていた。
さて、曽良の「随行日記」では平泉での1日は次ぎのようになっている。
十三日 | 天気明。巳の剋ヨリ平泉ヘ趣。山ノ目、平泉ヘ以上弐里半ト云モニ里ニ近シ。高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・泉城・さくら川・さくら山・秀平やしき等ヲ見ル。霧山見ユルト云モ見ヘズ。タツコクガ岩ヤへ不行。三十町有由。月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留守ニテ不開。金鶏山見ル。新御堂無量光院跡見、申ノ上剋帰。主、水風呂敷ヲシテ待。宿ス。 |
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芭蕉は高館のあと奥州藤原氏や源義経に関しての遺跡の多い衣川や「衣の関」に寄って中尊寺に行っている。そのあと白山神社を参拝している。ほんとうは「タツコクガ岩ヤ」にも行きたかったのだが、遠いのでやめにしたとある。そして平泉から一関に戻り、前夜と同じ宿に泊っている。
芭蕉は一関では2泊しているのだが、『おくのほそ道』には一関についての記述はまったくない。
さて、カソリの「平泉探訪」はまだまだつづく。
中尊寺から毛越寺へ。
毛越寺は嘉祥3年(850年)、慈覚大師が創建したといい伝えられているが、奥州藤原氏2代目の基衝が大伽藍の造営に着手し、3代目の秀衝の時代に堂塔40、僧坊500を数える大伽藍が完成したといわれる。広大な境内には、かつては金堂円隆寺をはじめ嘉祥寺、講堂、常行堂、経楼、南大門などが建ち並び、その前庭には大泉が池を中心とする浄土庭園が配された。だがたび重なる焼禍で今では大泉が池が残るのみ。それだけによけい強く無常感を感じさせる。境内には「夏草や 兵どもが 夢のあと」の芭蕉の句碑が建っている。
毛越寺からは芭蕉が行けなかった達谷巌(たっこくのいわや)へ。
ここは平泉から南西約6キロのところにある断崖に掘られた洞窟で、毘沙門堂がまつられている。高さ16メートルの磨崖仏、「岩面大仏」もある。風化が進んでいるが、顔だけははっきりとわかる。そのほか金堂、不動堂もある。そんな達谷巌を最後に「平泉探訪」を終えた。