奥の細道紀行[36]
投稿日:2016年9月27日
再び足跡を追う
「奥の細道」の奥州編最北の地、平泉に戻ると、国道4号で一関へ。往路編の時と同様、一関駅前の「東横イン」に泊まり、一関から岩出山までの芭蕉の足跡を追った。
『おくのほそ道』のその間の記述では、
南部道遥かに見やりて、岩手の里に泊まる。
とあるだけだけだ。「岩手の里」というのは岩出山のことである。
だが曽良の「随行日記」には、次ぎのように比較的、詳しく書かれている。
十四日 | 天気吉。一ノ関を立。岩崎三リ真坂。岩崎ヨリ金成ヘ行中程ニつくも橋有。岩崎ヨリ壱リ半程、金成ヨリハ半道程也。岩崎ヨリ行ば、道ヨリ右の方也。四リ半岩手山やしき町モ平地。上ノ山は正宗ノ初ノ居城也。杉茂リ、東ノ方、大川也。玉造川ト云。岩山也。入口半道程前ヨリ右ヘ切レ、一ツ栗ト云村ニ至ル。小黒崎可見トノ義也。遠キ所也故、川ニ添廻テ、及暮岩手山ニ宿ス。真坂ニテ雷雨ス。乃晴、頓又曇テ折ゝ小雨スル也。 |
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一関から岩出山までは国道457号で行くのがわかりやすい。だが、地図上で一関と岩出山を結んで線を引いてみると、国道457号はこの最短ルートよりかなり西側に外れていることがわかる。さらに大きく曲がりくねっているので、相当距離は長くなる。
昔の人たちは、より最短のルートを歩いたのは間違いないことだ。
「一関→岩出山」を結ぶ最短ルートに近い道が、一関と松山を結ぶ松山街道(陸奥上街道)。そのうち岩出山までのルートは、現在の県道182号→国道457号→県道17号にほぼ相当する。
そこで一関を出るといったんは国道457号で岩手県から宮城県に入ったが、もう一度、仕切り直しで一関に戻った。国道4号で岩手県から宮城県に入ると、藤渡戸の交差点(栗原市)で県道182号に入り、旧栗駒町(現栗原市)の中心、岩ヶ崎へ。この岩ヶ崎が岩崎のことだ。
芭蕉は岩崎から寄り道をして、金成(国道4号沿いの町)への途中にある歌枕の「つくも橋」に行きたかったようだ。だが、往復するとかなりの距離になるので諦めた。
そこでカソリ、岩ヶ崎から県道4号→県道186号で金成まで行き、同じルートで戻ってきた。その途中に「津久毛」はあったが、「つくも橋」はよくわからなかった。
松山街道は岩ヶ崎からは国道457号→県道17号となって旧一迫町(現栗原市)の中心、真坂へ。そこからゆるやかな丘陵地帯を越えて岩出山に出る。
さらにいえば、松山街道は岩出山から国道47号で古川(大崎市)へ。古川からは県道32号で旧松山町(現大崎市)の中心の松山に通じている。
さて芭蕉だが、岩出山に到着すると町中に入る前に、鳴子方向に行き、歌枕の「小黒崎」を見ようとした。小黒崎というのは国道47号の北側にある小黒ヶ崎山(244m)のことだ。鳴子温泉郷の入口に大きなこけし像が建っているが、そこから目の前に見える山である。だが小黒崎まで行って岩出山に戻ると相当な距離になるので諦め、岩出山に戻ってきたのだ。バイク旅でもそうだが、旅の最中にはこういうことはよくあるものだ。
こうして芭蕉は一関を出発した日は岩出山に泊った。「石崎屋」という旅籠に泊まったといわれている。
曽良の「随行日記」ではその記述の最後に、さらに次ぎのように書かれている。
中新田町、小野田、原ノ町、門沢、漆沢、軽井沢、上ノ畑、尾羽根沢、大石田乗船 岩手山ヨリ門沢迄すぐ道も有也。右ノ道遠ク、難所有之由故、道ヲカエテ… |
芭蕉は当初の予定では岩出山から中新田、小野田を通り、中羽前街道で奥羽山脈の峠を越えて羽州に入り、尾花沢から大石田へ。大石田で最上川の船に乗るつもりだったようだ。
当時の中羽前街道は今のルートでいえば、鍋越峠を越える国道347号の相当する。だがこのルートはきわめて厳しいと、「石崎屋」の主人にでもいわれたからなのだろうか、鳴子を通る北羽前街道で羽州に入っていく。今の国道47号だ。
さてカソリはといえば、岩出山では城山公園に登った。曽良が「上ノ山は正宗(政宗)ノ初ノ居城也」と書いているように、ここは伊達政宗の岩出山城跡。城跡から岩出山の町並みを見下ろした。
岩出山からさらにスズキST250を走らせ、国道47号で鳴子へ。小黒崎山を見て、鳴子温泉郷に入っていく。
川渡温泉の共同浴場に入り、東鳴子温泉の「初音旅館」に泊った。
黒湯にゆったりつかり、湯上がりにキューッと冷えたビールを飲み干した。そのあとで夕食。ありがたい部屋食。イワナの塩焼き、刺身、タコの酢の物、焼肉などをいただく。澄まし汁の「うーめん」にはごっそりとキノコ類がはいっている。
「うめー!」
おかみさん、ご馳走さま!