奥の細道紀行[38]
投稿日:2016年10月2日
「羽州編」始まる
国道47号の中山峠の峠上が堺田の集落。宮城・山形の県境を過ぎた山形県側にある。奥羽山脈の峠越えルートはトンネル以外だと大半は冬期閉鎖になるが、そのなかにあって、標高314メートルの中山峠は通年通行可。その理由は峠が低いからだ。314メートルという標高は奥羽山脈の峠としては、きわめて低い。この数字以上に低い峠というと、国道107号の岩手・秋田県境の巣郷峠があるだけだ。巣郷峠の標高は296メートルである。それだから芭蕉も北羽前街道のこの峠を越えた。
最初の予定では中山峠の南、国道347号(中羽前街道)の鍋越峠を越えて尾花沢に下っていくつもりにしていたが、先にもふれたように岩出山で予定を変えた。
鍋越峠の標高は中山峠の倍以上の701メートル。当時の峠越えというのは、今の時代とは比べものにならないほど大変なことだった。
芭蕉は中山峠上の堺田からさらに山刀伐峠を越えて尾花沢に下っていくのだが、この「堺田→尾花沢」間というのは、「奥の細道」全ルートのなかでも最も困難をきわめた難コース。芭蕉はその間のことを次ぎのように書いている(最初の部分は前回と重複)。
南部道遥かに見やりて、岩手の里に泊まる。小黒崎・みづの小島を過ぎ、鳴子の湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越えんとす。この道旅人まれなる所なれば、関守に怪しめられて、やうやうとして関を越す。大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。三日風荒れて、よしなき山中に逗留する。
蚤虱馬の尿する枕もと
あるじのいわく、これより出羽の国に大山を隔てて、道定かならざれば、道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。さらばといひて人を頼みはべれば、究きょうの若者、反脇指を横たへ、樫の杖を携えて、われわれが先に立ちて行く。今日こそ必ず危きめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後に付いて行く。あるじのいふにたがわず、高山森々として一鳥を聞かず、木の下闇茂り合ひて夜行くがごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏み分け踏み分け、水を渡り、岩につまづいて、肌に冷たき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内の男のいうやう、「この道必ず不用のことあり。恙なう送りまいらせて、仕合はせしたり」と、喜びて別れぬ。後に聞きてさへ、胸のとどろくのみなり。
いよいよ「奥の細道」の「羽州編」が始まった。
堺田で芭蕉が泊まった「封人の家」を見学。庭には「蚤虱馬の尿する枕もとの句碑が建っている。堺田からはスズキのST250を走らせて尾花沢へ。中山峠の山形県側の下りはゆるやか。しばらく下ったところで国道47号を左折し、県道28号に入っていく。この道が山刀伐峠を越えて尾花沢に通じている。
山刀伐峠の峠下には赤倉温泉。ここでは「あべ旅館」の大岩風呂に入った。自然石をそのまま使った大岩風呂で、岩の間からはブクブクと熱い湯が湧き出ている。
赤倉温泉で心身ともにさっぱりしたところで山刀伐峠に向かっていく。まずは新道で峠を貫くトンネルを往復し、次に旧道で峠を登っていく。その間ではあちこちで、芭蕉の歩いた時代の山道を見る。
「高山森々として一鳥聞かず、木の下闇茂り合ひて夜行くがごとし」の山刀伐峠の峠道。
まったく人影も交通量もない旧道を登りつめ、山刀伐峠に到達。峠には車が何台も停められるような駐車場ができている。
山刀伐峠でST250を停め、しばし山の空気を胸いっぱいに吸ったあと、峠を下っていく。峠を下りきると集落が点在し、鍋越峠を越える国道347号を横切って尾花沢の中心街に入っていった。
堺田から尾花沢までは、曽良の「随行日記」では次ぎのように書かれている。
十六日 | 堺田ニ滞留。大雨、宿。 |
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十七日 | 快晴。堺田ヲ立。一リ半、笹森関所有。新庄領。関守ハ百姓ニ貢ヲ宥シ置也。笹森、三リ、市野ゝ。小国ト云へカゝレバ廻リ成故、一バネト云山路ヘカゝリ、此所ニ出。堺田ヨリ案内者ニ荷物持せ越也。市野ゝ五六丁行テ関有。最上御代官所也。百姓番也。関ナニトラヤ云村也。正厳・尾花沢ノ間、村有。是、野辺沢へ分ル也。正ゴンノ前ニ大夕立ニ逢。昼過、清風ヘ着、一宿ス。 |
芭蕉は山刀伐峠の峠越えをじつに感動的に描いているが、曽良はあっさりとしたもので、峠越えの大変さにはほとんどふれていない。
関所があったという笹森は国道47号沿いの集落で、市野々は山刀伐峠を下った所。ともに『ツーリングマップル東北』にはのっている。
なお堺田で芭蕉が泊った「封人の家」だが、茅葺屋根の大きな構えの家が国道47号の中山峠上に残っている。間口約25メートル、奥行き約11メートル。江戸初期に建てられたもので、国の重要文化財に指定されている。封人とは国境を守る番人で、代々、有路家が勤めていた。同家は庄屋でもあり、問屋、旅籠をも兼ねていたという。