奥の細道紀行[39]
投稿日:2016年10月4日
長期滞在の地「尾花沢」
中山峠の峠上の堺田から山刀伐峠を越えて羽州街道の宿場町、尾花沢に到着した芭蕉は、豪商の鈴木清風宅で1泊している。清風は鈴木家3代目当主で、当時39歳という若さだった。鈴木家は大名に貸し付けるほどの資金力のある金融業を営み、この地方の特産品の紅花を買い集める大問屋でもあった。江戸や京都にも支店を持ち、全国規模での商売をしていたという。清風は商売人であっただけではなく、当時、そうとう名の知られた俳人でもあった。芭蕉は江戸でそんな清風に会っており、3年ぶりの再会ということになる。
芭蕉はその翌日からは、清風の手配で養泉寺に移った。清風宅で3泊、養泉寺で7泊と、芭蕉はここ尾花沢で10泊している。「奥の細道」では最も長く滞在した町になる。
尾花沢にて清風という者を尋ぬ。かれは富める者なれども、志卑しからず、都にもをりをり通ひて、さすがに旅の情を知りたれば、日ごろとどめて、長途のいたはり、さまざまにもてなしはべる。
涼しさをわが宿にしてねまるなり
這い出でよ飼屋が下の蟾の声
眉掃きを俤にして紅粉の花
蚕飼ひする人は古代の姿かな 曽良
厳しかった山刀伐峠越えのあとだけに、尾花沢ではゆったりできたようだ。
本文では「さまざまにもてなしはべる」とあるように、清風にはずいぶん歓待された。「涼しさをわが宿にしてねまるなり」の句には、養泉寺滞在中のまったり感がよく出ている。
芭蕉が尾花沢に到着したのは元禄2年(1689年)5月17日。これは旧暦で、新暦だと7月3日になる。この頃から紅の原料になる紅花が咲きはじめる。芭蕉は紅花が咲くのを見たかったようだ。
曽良の「随行日記」では、尾花沢滞在中は次ぎのようになっている。
十八日 | 昼、寺ニテ風呂アリ。小雨ス。ソレヨリ養泉寺移り居。 |
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十九日 | 朝晴ル。素英ナラ茶賞ス。夕方小雨ス。 |
廿日 | 小雨。 |
廿一日 | 朝、小三良へ被招。同晩、沼沢所左衛門へ被招。此ノ夜、清風ニ宿。 |
廿二日 | 晩、素英に被招。 |
廿三日ノ夜、秋調へ被招。日待也。ソノ夜清風ニ宿ス。 | |
廿四日之晩、一橋、寺ニテ特賞ス。十七日ヨリ終日清明ノ日ナシ。 | |
廿五日 | 折々小雨ス。大石田ヨリ川水入来、連衆故障有テ俳ナシ。夜ニ入、秋調ニテ庚申待チテ被招。 |
廿六日 | 昼ヨリ於遊川、東陽特賞ス。此日も小雨ス。 |
このように「随行日記」にもあるように、尾花沢滞在中は連日、多くの俳人たちに出会い、招かれている。芭蕉はさぞかし満足したことだろう。秋調からは23日に「日待」、25日には「庚申待」と、年中行事にも招かれている。尾花沢の俳人たちが、いかに芭蕉を歓迎したかがわかる。
さてカソリだが、スズキST250を走らせて尾花沢の町に到着すると、芭蕉が泊まった鈴木清風宅の「芭蕉・清風歴史資料館」を見学する。芭蕉と清風の出会いや清風伝説が興味深い。
清風は江戸商人たちに「田舎商人」だと馬鹿にされ、紅花不買同盟を結ばれた。それに怒った清風はカンナクズを紅花だと偽って燃やしてしまう。その結果、紅花の価格は大暴騰し、清風は3万両という巨利を得た。だが清風は「これは尋常な商売で儲けた金ではない」といって、3日3晩、江戸・吉原の大門を閉じ、遊女たちに休みを与えたという。これが有名な「清風伝説」だ。資料館の2階には、雪国の生活ぶりをうかがわせる民具類が展示されている。そんな「芭蕉・清風歴史資料館」の前には芭蕉像が建っている。
尾花沢をひとめぐりし、養泉寺を参拝すると、芭蕉が最初の予定では越えることになっていた中羽前街道の鍋越峠まで行ってみる。国道347号で鍋越峠に向かうと、広々とした水田地帯の向こうに奥羽山脈の山並みが見えてくる。やがて山中に入ると、峠下には「長寿の名水」がある。キリリと冷たい湧水。そこを過ぎると、じきに山形・宮城県境の鍋越峠に到着。峠のトンネル入口で折り返し、尾花沢に戻った。そして町外れにあるおもだか温泉の一軒宿「鈴ノ湯旅館」に泊った。民宿風の家庭的なあたたかみのある宿だ。