カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

奥州街道を行く! [16]

投稿日:2017年5月20日

奥州街道の終着点

2009年10月12日

 奥州街道を北へ、北へとスズキDR−Z400Sを走らせ、国道4号の青岩大橋を渡って青森県に入った。青森県最初の宿場、三戸宿では三戸城址を歩いた。ここは南部藩発祥の地。元和年間(1615年〜1624年)に盛岡に不来方城を築くまでは、ここが南部藩の本拠になっていた。

 三戸宿からは浅水宿、五戸宿、六戸宿、伝法寺宿、藤島宿を通って七戸宿へ。藤島宿は十和田の市街地の南になるが、みつけるのがちょっと難しい。宿場の跡も残っていない。

 七戸宿の手前には奥州街道の松並木。そこには「奥州街道」碑が建っている。七戸宿には南部縦貫鉄道の七戸駅が残り、レールバスが動態保存されている。

県境の青岩大橋を渡って青森県に入る三戸宿三戸城址

県境の青岩大橋を渡って青森県に入る 三戸宿 三戸城址

三戸城七戸宿近くの「奥州街道」碑南部縦貫鉄道の七戸駅跡

三戸城 七戸宿近くの「奥州街道」碑 南部縦貫鉄道の七戸駅跡

七戸駅跡のホーム

七戸駅跡のホーム    

 七戸宿から野辺地宿へ。野辺地駅周辺の鉄道防雪林を見たあと、野辺地宿を走り抜け、陸奥湾の海岸に出る。そこには常夜灯。その説明が興味深い。

浜町の常夜燈は、文政10年(1827年)、野辺地の廻船問屋野村治三郎によって建てられた。関西の商人橘屋吉五郎の協力を得て海路運ばれてきた。常夜燈には、毎年3月から10月まで夜ごと灯がともされ、航海の安全を守る灯明台として野辺地湊に行き交う船を見守ってきた。江戸時代には物資輸送の大動脈であった大坂(大阪)と蝦夷地(北海道)を結ぶ日本海航路。野辺地湊はこの航路への盛岡藩の窓口であり、領内の海産物・大豆・銅などを積み出す船や、塩・木綿・日用品などを積み入港する船でにぎわった。湊には湊役所・銅蔵・大豆蔵などの施設や廻船問屋の船荷蔵があり、船は沖合に停泊し、はしけ船によって船荷を運んでいた。

 野辺地宿は奥州街道と当時の日本の大動脈、千石船の北前船が行き来する日本海航路との接点であり、相当にぎわった港だったことが、この海岸に残る常夜灯から読み取れる。

 野辺地宿からは海沿いに走り、小湊宿、野内宿と通り、奥州街道の終点の青森宿に到着。青森駅前でDRを止めた。東京・日本橋から1168キロ。奥州街道は青森からは松前街道と名前を変えてさらに津軽半島の三厩まで通じている。

 青森駅前から青森港のフェリー埠頭に行き、22時15分発の函館行の津軽海峡フェリー「ぴなす」にDRともども乗った。ということで「奥州街道を行く!」の往路編はここまでということになる。

 函館からは反時計回りで北海道を一周し、その間では全部で52件の「北海道遺産」をめぐった(「北海道一周」は当サイトの「北海道遺産めぐり」をご覧になってください)。函館から青森に戻ると、「奥州街道を行く!」の復路編を開始するのだった。

野辺地駅の鉄道防雪林野辺地宿野辺地の常夜灯

野辺地駅の鉄道防雪林 野辺地宿 野辺地の常夜灯

野辺地から見る陸奥湾青森駅前に到着!青森港のフェリーターミナル

野辺地から見る陸奥湾 青森駅前に到着! 青森港のフェリーターミナル

フェリーターミナルで食べた「ホタテラーメン」津軽海峡フェリーの「ピナス」で函館へ

フェリーターミナルで食べた「ホタテラーメン」 津軽海峡フェリーの「ピナス」で函館へ  

Comments

Comments are closed.