カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

ジクサー150分割日本一周[28]

投稿日:2020年6月23日

中国一周編 18(2017年3月4日)

大陸へ「下関鉄道桟橋」

下関の「関釜・関門航路下関鉄道さん橋跡」

下関の「関釜・関門航路下関鉄道さん橋跡」

 下関駅前に到着すると、「下関探訪」を開始。まずは「関釜・関門航路下関鉄道さん橋跡」に行く。その跡地には下関のシンボルの「海峡ゆめタワー」が建っている。高さ153メートルの下関のランドマークタワーだ。

「関釜・関門航路下関鉄道さん橋跡」碑には次のように書かれている。

 下関鉄道桟橋は明治34年5月の関門航路、同38年9月の関釜航路開設に伴って、大正3年7月に本格的な岸壁を築造、その歴史的な第一歩を印した。その後、関釜航路は隆盛の一途をたどり、昭和11年には当時わが国の優秀船として海運界に注目された7000トン級の金剛丸型が就航した。さらに昭和17年には8000トン級の天山丸型が就航し、これらの出入りの船が長さ562メートルの大岸壁を圧し、多くの人々に愛され、親しまれた。しかし、これらの国鉄の誇った海の女王たちも、第二次大戦で、ほとんどが沈没、座礁するなどの大打撃を受け、昭和20年8月、終戦とともに関釜航路は営業を中止した。一方関門航路は本州、九州間連絡の幹線として、また関門市民の足として親しまれ利用されたが、関門鉄道トンネルなどの開通により、昭和39年10月、その使命を終えた。

 記念碑の裏には、関釜、関門航路の船名が記されている。

関釜航路
明治38年9月 山陽汽船会社の壱岐丸就航
明治39年12月 国有になる
大正11年5月 景福丸就航
大正12年3月 昌慶丸就航
昭和11年11月 金剛丸就航
昭和12年1月 興安丸就航
昭和15年11月 壱岐丸就航
昭和16年4月 対馬丸就航
昭和17年9月 天山丸就航
昭和18年4月 崑崙丸就航
昭和20年8月 関釜航路廃止
関門航路
明治34年5月 山陽鉄道会社の大瀬戸丸、下関丸就航
明治39年12月 国有になる
大正3年11月 門司丸就航
大正9年12月 長水丸、豊山丸就航
大正14年8月 下関丸就航
昭和39年10月 関門航路廃止
昭和44年11月 下関桟橋廃止

 関釜連絡船の乗客数が急増するのは、満州事変(昭和6年)後のことである。風雲急を告げる大陸の情勢を背景に、日本と朝鮮半島の間の幹線としてその重要度は増した。「玄海の女王」といわれた金剛丸、興安丸が完成したのは日華事変(昭和12年)の直前のことであった。さらに大きい「玄海の女王」の天山丸と崑崙丸が就航したのは太平洋戦争の最中のことで、その頃が関釜連絡船の最盛期。昭和17年の年間利用者は300万人を超えた。

 関釜連絡船の船名の移り変わりが興味深い。最初は壱岐、対馬。次が高麗、新羅。その次は朝鮮の王宮の景福、徳寿、昌慶。そして朝鮮の金剛山と満州の小興安嶺山脈、大興安嶺山脈からとった金剛、興安。最後は中央アジアの天山山脈、崑崙山脈からとった天山、崑崙だ。

関釜フェリーの思い出

 次に現代版関釜連絡船の関釜フェリーターミナルに行く。関釜フェリーは1969年6月に運航を開始したが、当時は週3回の運航で、3800トンのフェリー1隻でのピストン運航だった。

 ぼくが初めて関釜フェリーに乗ったのは1971年7月。2等船室でごろ寝したが、行商のおばさんたちと一緒になった。行商といっても、もんぺ姿に大きな荷物といういでたちではない。高価な毛皮のコートで身を包み、指には大きな指輪が光っていた。おばさんたちは在日の韓国人たちで、広島からやってきた。こうして月に2、3度、関釜間を往復している。大阪あたりで高級品を買い入れて韓国で売りさばき、韓国からは螺鈿細工などの作るのに手間のかかる品物を持って帰り、それを日本で売っていた。

 一人のおばさんはミンクの毛皮の襟から芯を抜いて無造作にまるめ、「釜山の税関でみつからなければいいのだけどねぇ」といいながら、菓子箱の中に入れていた。

 日本語と韓国語を自由にあやつり、国境を越えて行商しているおばさんたちは迫力満点だったが、それも在日の韓国人だからできることであった。当時、韓国在住の人にとっては、パスポートを取って日本に来ることは極めて難しいことだった。

 ぼくにとっては何ともなつかしい初めての関釜フェリーの旅。そのときは釜山を出発点にして鉄道で韓国を一周した。

 それ以降も関釜フェリーで下関から釜山に渡ったが、2000年には韓国政府から特別な許可をもらい、ついにバイクで釜山に渡り、「韓国一周」を成しとげた。2005年には韓国政府は海外からのバイクの持ち込みを解禁した。日本のナンバーそのままのバイクで釜山から北朝鮮国境まで走ったのだ。

 こうして関釜フェリーのターミナルにやってくると、様々な思い出が一気によみがえり、胸がキューンとしてくる。

 最後は夕暮れの下関漁港に行き、岸壁にジクサー150を止め、ここで下関の地名を考えてみた。

 下関は今は「下関」が一般的だが、かつては「馬関」と呼ばれていた。関門海峡も昭和17年(1942年)に完成した鉄道海底トンネルが「関門トンネル」と命名されるまでは、馬関海峡が一般的だった。

 明治22年(1889年)に市町村制ができた時、下関は山口県では唯一の市で、赤間関市だった。赤間の名前は赤間神社や赤間硯に残っている。

 赤間や赤間関、馬関、下関、関など、これら下関を表す地名がある時代には同時に用いられれていたのがおもしろいではないか。

 これが旅のよさ。バイクを走らせていると、行く先々でこのようなおもしろいことに出会うのだ。

正面に関釜フェリーの「下関港国際ターミナル」が見えている下関漁港でジクサー150を止める下関の海を見ながら「下関」を考える

正面に関釜フェリーの「下関港国際ターミナル」が見えている 下関漁港でジクサー150を止める 下関の海を見ながら「下関」を考える

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