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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

ジクサー150分割日本一周[125]

投稿日:2020年11月18日

東北一周編 11(2017年7月20日)

芭蕉も書いた国府の壷碑

このお堂の中に多賀城碑がある

このお堂の中に多賀城碑がある

 陸奥の国府跡の多賀城跡を歩いたあと、道をはさんだところにある「多賀城碑」を見る。祠のような堂の中に壷碑はあるが、高さ約2メートル、幅約1メートル、厚さ約70センチの砂岩の石碑で、碑面は西を向いて建てられている。それには案内板によると、次ぎのように書かれている。

文字のかすれた多賀城碑の碑文

文字のかすれた多賀城碑の碑文

 多賀城
 京去 一千五百里
 蝦夷国界去 一百二十里
 常陸国界去 四百十二里
 下野国界去 二百七十四里

 此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将軍従四位上動四等大野朝臣東人之所置也天平寶字六年歳次壬寅議東海東山節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守将軍藤原恵美朝臣朝狩修造也 天平寶字六年十二月一日

 「天平寶字六年」というのは西暦762年。京というのは奈良・平城京のことで、奈良時代の1里は約535メートルだった。

 この壷碑には多賀城は神亀元年に按察使(陸奥・出羽両国の監督官)兼鎮守将軍(各地の城柵と兵士を統括する役人)の大野東人によって築かれたこと、天平宝字6年には、参議(大臣、大中納言に次ぐ国政の要職)であり、按察使兼鎮守将軍の藤原朝狩によって改修されたことが記されている。つまり壷碑は多賀城の改修記念碑なのだ。

 多賀城の壷碑は群馬県吉井町(現高崎市)の多胡碑、栃木県湯津上村(現大田原市)の那須国造碑とともに日本三古碑に数えられている。

 芭蕉は『おくのほそ道』の「壷碑」の項では次のように書いている。

 つぼの石ぶみは、高さ六尺余り、横三尺ばかりか。苔を穿ちて文字幽かなり。四維国界の数里をしるす。「この城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所里也。天平宝字六年、参議東海東山節度使同将軍恵美朝臣狩修造而。十二月朔日」とあり。聖武皇帝の御時に当れり。昔よりよみ置ける歌枕、多く語り伝うといえども、山崩れ、川流れて、道改まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に代われば、時移り、代変じて、そのあとたしかならぬことのみを、ここに至りて疑いなき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の喜び、羇旅の労を忘れて、涙も落つるばかりなり。

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