カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

ジクサー150分割日本一周[159]

投稿日:2021年4月2日

東北一周編 45(2017年7月24日)

義経北行伝説の地「三厩」へ

三厩に到着

三厩に到着

JR津軽線の終点、三厩駅

JR津軽線の終点、三厩駅

蟹田行の列車

蟹田行の列車

鉄路はここで途切れる

鉄路はここで途切れる

三厩駅の時刻表

三厩駅の時刻表

三厩の案内図

三厩の案内図

外ヶ浜町の案内図

外ヶ浜町の案内図

 今別から三厩へ。

 奥州街道(松前街道)終点の三厩に到着すると、まずはJR津軽線の終着駅、三厩駅に行く。蟹田行きの2両編成の列車が停車していた。つづいて三厩魚港へ。漁港前には「松前街道終点」の碑が建っている。しかし、松前街道は三厩が終点ではなく、さらに海路で蝦夷地の松前に通じているのだ。

「松前街道終点」の碑に隣りあって、「源義経渡道之地」碑が建っている。そこには「源義経龍神塔」と「静御前龍神塔」。源義経と静御前は神としてまつられている。断崖上には義経寺がある。

 さらに津軽海峡を渡った北海道・日高の平取には義経神社がある。義経はここでは「競馬の神様」になっている。東北でも北海道でも、義経・弁慶の主従は神として崇め奉られているが、これはいったいどういうことなのか。

 平家を打ち破り、源氏に大勝利をもたらした源義経は、兄頼朝の反感をかって都を追われた。義経は弁慶を従え、命がけで奥州・平泉に逃げ落ち、奥州の雄、藤原氏三代目の秀衡の庇護を受けた。しかし頼朝の義経追求の手は厳しさを増した。

 秀衡の死後、その子泰衡は頼朝を恐れ、義経一家が居を構えていた北上川を見下ろす高館を急襲。弁慶は無数の矢を射られ、仁王立ちになって死んだ。義経は妻子とともに自害した。頼朝の平泉攻撃の3ヵ月前、文治5年(1189年)4月30日のことだった。

 こうして悲劇の英雄、源義経は、奥州・平泉の地で最期をとげたことになっている。だが、なんとも不思議なことに平泉以北の東北各地には、義経・弁慶の主従が北へ、北へと逃げのびていったという「義経北行伝説」の地が点々とつづいているのだ。

 それは義経や弁慶をまつる神社や寺だったり、義経と弁慶が泊まったという民家だったり、義経と弁慶が入った風呂だったり…。その「義経北行伝説」の地を結んでいくと、1本のきれいな線になって北上山地を越え、三陸海岸から八戸、青森、そして津軽半島の三厩へとつづいている。

 三厩には「義経北行伝説」の「厩石」がある。

 蝦夷地を望むこの地までやってきた義経一行は、荒れ狂う津軽海峡に行く手を阻まれてしまった。そこで義経は海岸の奇岩の上に座って3日3晩、観音に海峡の波風を鎮めてくれるよう一心に祈願した。すると満願の暁に白髪の翁が現れ、「3頭の龍馬を与えよう。これに乗って海峡を渡るがよい」と言って消えた。奇岩から降りると、岩穴には3頭の龍馬が繋がれていた。海は鎮まり、波ひとつなかった。義経一行は3頭の龍馬に乗り、蝦夷地に渡ることができた。

 それ以降、この奇岩を「厩石」、この地を「三厩」と呼ぶようになったという。

 三厩までやって来るとこの地が街道の終点ではなく、さらに北へ、北へと延びていることがよくわかる。「義経北行伝説」はそれを証明しているようなものだ。三厩漁港の岸壁に立っていると、遙かな北の世界に胸を躍らせてしまう。

 国道280号も三厩が終点ではなく、北海道に渡り、福島から知内、木古内を通り、函館が終点になっている。「福島〜函館」間は、国道228号との重複区間になっている。

奥州街道の三厩宿を行く三厩漁港「松前街道終点之地」碑

奥州街道の三厩宿を行く 三厩漁港 「松前街道終点之地」碑

「源義経渡道之地」碑三厩の義経寺三厩の厩石

「源義経渡道之地」碑 三厩の義経寺 三厩の厩石

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