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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

ジクサー150分割日本一周[179]

投稿日:2021年4月30日

東北一周編 65(2017年7月25日)

「象潟は憾がごとし」

 芹田岬を出発すると、海沿いの道で金浦へ。海岸線には風車が林立している。

芹田岬から海沿いの道を行く日本海の海岸には風車が立ち並ぶ金浦への海沿いの快走路

芹田岬から海沿いの道を行く 日本海の海岸には風車が立ち並ぶ 金浦への海沿いの快走路

金浦漁港

金浦漁港

 金浦からは国道7号で象潟へ。ここは芭蕉の「奥の細道」最北の地。舞台となった蚶満寺に寄っていく。この寺が芭蕉時代の干満珠寺だ。国道7号のすぐ脇で、JR羽越本線の踏切を渡ったところにある。芭蕉像を見た後、山門、本堂とまわった。

 芭蕉は『おくのほそ道』では、象潟を次のように描いて絶賛している。

 江山水陸の風光を尽くして、今象潟に方寸を責む。酒田の港より東北のかた、山を越え、磯を伝ひ、いさごを踏みて、その際十里、日影やや傾くころ、潮風真砂を吹き上げ、雨朦朧として鳥海の山隠る。闇中に模索して「雨もまた奇なり」とせば、雨後の晴色またたのしきものと、あまの苦屋に膝入れて、雨の晴るるを待つ。その朝、天よくはれて、朝日はなやかにさし出づるほどに、象潟に舟を浮かぶ。まず能因島に舟寄せて、三年幽居の跡を訪ひ、向かうの岸に舟を上がれば、「花の上漕ぐ」とよまれし桜の老の木、西行法師の記念を残す。江上に御陵あり。神功皇后の御墓という。寺を干満珠寺という。この所に行幸ありしこといまだ聞かず。いかなることにや。この寺の方丈に座して簾を捲けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海、天を支え、その影映りて江にあり。西はむやむやの関、道を限り、東に堤を築きて、秋田に通ふ道遥かに、海北にかまえて、波うち入るる所を汐越といふ。江の縦横一里ばかり、俤松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟は憾むがごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。

 とくに印象深いのは干満珠寺から見た風景だ。

水田に浮かぶ九十九島

水田に浮かぶ九十九島

蚶満寺の芭蕉像

蚶満寺の芭蕉像

蚶満寺の山門

蚶満寺の山門

蚶満寺の本堂

蚶満寺の本堂

蚶満寺の舟つなぎ石

蚶満寺の舟つなぎ石

「この寺の方丈に座して簾を捲けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海、天を支え、その影映りて江にあり。西はむやむやの関、道を限り、東に堤を築きて、秋田に通う道遥かに、海北にかまえて、波うち入るる所を汐越という」

 この一節は『おくのほそ道』を通しても一、二の名文だ。「むやむやの関」とあるのは「有耶無耶の関」のことである。

 しかし残念ながら、今では『おくのほそ道』にあるような風景は見られない。象潟が潟でなくなってしまったからだ。文化元年(1804年)の象潟地震でこの一帯は隆起し、「江の縦横一里ばかり」とある潟は陸地になってしまった。

 蚶満寺の境内には舟つなぎ石が残されているが、それが当時は潟の岸辺にある寺だったことを証明している。またここからはポコッ、ポコッと盛り上がった小丘をいくつも見るが、それが当時の九十九島だ。

 芭蕉は「松島は笑うがごとく、象潟は憾がごとし」といっているが、まさにそのとおりで、松島は押すな押すなの大盛況。瑞巌寺や五大堂などは、人をかきわけて歩くようだった。それにひきかえ、潟でなくなってしまった象潟はまるで忘れ去られたかのような存在で、訪れる人も少ない。

 松島と象潟は、何とも対照的な「奥の細道」のハイライト2地点なのである。

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