ジクサー150分割日本一周[234]
投稿日:2021年8月7日
日本最北の水田地帯
天塩から日本海沿いの国道232号を行く。この国道232号というのは、ぼくにとっては鬼門で、いままでに3度、スピード違反で捕まっている。1度目は一斉、2度目は白バイ、3度目はレーダーパトだ。それだけに、慎重にジクサー150を走らせ、何度もバックミラーに目をやった。
遠別からは道道119号で咲花峠に向かって行く。この一帯が日本最北の水田地帯。道道119号を離れ、農道を北へ。そして一番北の水田まで行った。
「おー、ここが日本最北の水田なのか!」
今から30年以上も前のことになるが、日本最北の稲を見ようと、函館から鉄道で稚内まで行ったことがある。日本観光文化研究所発行の月刊誌『あるくみるきく』(1987年2月号)に書いた懐かしの「北の稲を追って宗谷岬へ」を読んでいただこう。
秋雨前線がべったりはりついた東京は、連日のように雨が降りつづき、私が上野駅を発った時も、雨が音をたてて降っていた。それがどうだろう、夜明けの函館は透き通るような青空で、さらさらした肌ざわりの空気とともに、異国に足を踏み入れたような気分にさせてられた。
さっそく、駅前の函館朝市に行く。裸電球がこうこうと灯る朝市は、5時前だというのに、すでに活気に満ちあふれていた。
朝市の花売場には菊や鶏頭、桔梗といった秋の花々が並んでいる。中秋の名月を目前にして、すすきや毬栗の枝、「ヤマノミ」と呼ばれる赤い木の実、色づいた楓の葉が目を引いた。
野菜売場では北海道特産のジャガイモが山のように積み上げられ、カボチャやサツマイモ、トウモロコシ、トマトと、新大陸原産の作物が目立って多い。日本の新世界の北海道には、これら新大陸産の作物が合っている。
鮮魚売り場は威勢がいい。津軽海峡で獲れたばかりのマイカが、裸電球の光を浴びて輝いている。鮮度を誇る函館朝市なだけあって、マイカはまだピクピク動いている。
市場内の食堂は、5時前には店を開ける。ほのかに漂う味噌汁の香りにつられ、暖簾をくぐった。名物の「イカソーメン」を頼むと、食堂のおばさんは「兄さん、ちょっと待っててね。生きのいいイカを食べさせてあげましょうね」といって、朝市にイカを買いに行った。それはさきほど見たまだ動いているあのイカである。それを鮮やかな包丁さばきでソーメンのように細長く切って出してくれる。スルスルッとソーメンをすするようにして、ショウガ醤油につけて食べた。のどの通りが何ともいえない。新鮮なイカのほのかな甘みを原動力にして、私はこれから北海道の列車を乗り継いで、最北の地に向かっていくのだ。
函館発8時02分の特急「北斗3号」で札幌に向かった。
函館の市街地を抜け出ると、広々とした草原の風景。木の柵で囲まれた牧場で馬が草を食んでいるのは、いかにも北海道らしかった。それとともに見た黄金色に染まった稲田の風景は、北海道が日本であることをあらためて強く感じさせるものだった。
函館平野(大野平野)は北海道の稲作発祥の地で、大野の文月で元禄年間(1688年〜1704年)に水稲栽培がおこなわれた記録が残っている。しかし北海道の稲作が本格化するのは明治以降のことで、稲作地帯は短期間に、石狩、空知、上川へと北に広がっていった。今では日本最大の米生産地帯になっている北海道。私は函館から稚内までの車窓から、日本人がどこまで北で、米をつくっているのかを見きわめたかった。
列車は杉や唐松の植林されている山地にさしかかり、峠のトンネルを抜け出ると、車窓には素晴らしい風景が展開された。神秘的な湖の向こうに火山が聳えている。駒ヶ岳だ。湖は青空を映し、湖面の青さが増幅されている。
8時44分、森着。森を過ぎると、列車は内浦湾に沿って走る。海沿いには漁村が点在し、浜はどこもコンブ漁でにぎわいを見せ、忙しげにコンブを干している。目を反対側の車窓に移すと、広々とした牧場が見える。乳牛、肉牛、競走馬のサラブレッドを見る。
9時31分、長万部着。ここは函館本線と室蘭本線の分岐駅。「北斗3号」は室蘭本線経由で札幌まで行く。長万部を過ぎると、海岸には背の低い柏や松が強い潮風に吹かれて揺れている。やがて前方には、大山塊が迫ってくる。トンネルに入る。全長2726メートルの礼文華トンネルだ。礼文華トンネルを抜け出たあともトンネルが連続する。大山塊が内浦湾に落ち込むこの一帯は、北海道版の親不知といったところだ。
10時01分、洞爺着。左手には爆発の跡も生々しい有珠山(737m)が見えている。吹き飛んだ山頂の周辺に草木はまったく見られず、焼けただれた山肌がむきだしになっている。
列車が洞爺駅を出て、沙流川の鉄橋にさしかかると、有珠山の裾野の向こうに昭和新山が見える。豊満な乳房のような形をしている。鉄橋を渡りきると稲田の中を走るが、今度は稲田の向こうに、有珠山、昭和新山の活火山を見る。
10時31分、東室蘭着。室蘭は「製鉄の町」。新日本製鉄の室蘭製鉄所を間近に見る。ここからは電化区間。東室蘭〜札幌〜旭川間は北海道鉄道網の幹線で、L特急の「ライラック」が1日に何本も走っている。
11時14分、苫小牧着。苫小牧は「製紙の町」。ここには王子製紙の工場がある。列車はここからは内陸に入っていく。車窓には勇払平野が広がる。「原野」という言葉がぴったりするような平野で、アフリカのサバンナを連想させる乾いた草原の中に、灌木が点在している。
千歳空港のあたりが太平洋側の勇払平野と日本海側の石狩平野の分水界になっているが、どのあたりが峠なのかわからないまま列車は石狩平野に入っていた。石狩平野は豊かな農地で、大型のハーベスターがジャガイモを収穫していた。
特急「北斗3号」は札幌の市街地に入り、12時05分、札幌駅に到着した。
札幌駅前からバスに乗って、郊外の羊ヶ丘展望台に行く。かつては月寒(つきさっぷ)牧場の名で知られた牧場の一角に、札幌の町並みを一望できる羊ヶ丘展望台がある。ここの名物はジンギスカン。さっそく本場のジンギスカンを賞味する。熱した鉄鍋の上で焼いた羊肉を食べながら生ビールを飲んだ。ジンギスカンとビールの相性はいい。
翌日は7時00分発の特急「オホーツク1号」で旭川に向かった。車内はほぼ満員で、サラリーマン風の乗客が多い。豊平川の鉄橋を渡り、札幌の市街地を抜け出ると、列車は石狩平野を走る。トウモロコシ畑やジャガイモ、タマネギ、大豆などの畑を見る。牧草地も広がっている。
しかし、それらの畑作地や牧草地よりも、一面に黄金色に染まった稲田のほうが、はるかに広い面積を占めている。また、1枚の稲田は、内地とは比べものにならないほど広い。その風景は、大規模な農業機械を取り入れている北海道の農業をうかがわせるものだ。
石狩平野の稲作が本格的に始まったのは、明治28年に北海道庁が稲作の試験場を設けてからのことだという。「坊主」という耐寒品種が生まれ、直播をするという北海道らしい稲作技術が発達した。明治34年には北海道拓殖銀行が設立され、農民に資金を提供するようになってからというもの、泥炭地の土地改良ができるようになった。そのため、低地で水の得やすいところはことごとく水田化され、石狩平野は日本有数の穀倉地帯になっていった。
7時32分、岩見沢着。岩見沢を過ぎると、右手には夕張山地へとつづくなだらかな山並みが見えてくる。美唄、砂川と通っていくが、石狩炭田の町々は炭鉱の相次ぐ閉山で、すっかり活気をなくしている。駅舎には寂しげな影が色濃く漂い、駅構内の線路に雑草がおい茂っているのがもの悲しい。
思えば昭和30年代前半の私が小学生だった頃、学校のストーブは石炭だったし、我が家の風呂も石炭で湧かしていた。石炭は文明の灯であり、日本に希望を与えてくれるエネルギー源になっていた。それが一気に石油にかわり、石狩炭田は衰退していった。
8時04分、滝川着。ここは根室本線との分岐駅。滝川を出るとまもなく石狩川を渡る。石狩平野につづく空知平野は、車窓から見る限りでは、稲作一辺倒のように見受けられた。
8時22分、深川着。ここは留萌本線との分岐駅。深川を過ぎると、石狩川の両岸には山々が迫り、川岸には安山岩の巨岩や奇岩が次々に現れる。神居古潭だ。古潭はアイヌ人の神々の存在を示す場所だが、神居には神の住む「魔の里」といった意味があるという。列車は神居古潭トンネルに入った。トンネルを抜け出ると、そこは上川盆地。8時45分に旭川に到着した。
旭川は石北本線と宗谷本線の分岐駅。特急「オホーツク1号」の大半の乗客はここで降りたが、列車はさらに石北本線の終点の網走まで行く。私は宗谷本線の稚内行きに乗り換えた。旭川から稚内までは「宗谷」、「天北」、「利尻」、「礼文」と、1日に4本の急行列車が走っているが、特急はない。私が乗ったのは8時52分発の急行「礼文」で、2両編成の列車だった。
急行「礼文」は旭川駅を発車すると、上川盆地を走る。石狩平野、空知平野と同じような稲作地帯の上川盆地だが、「これが平野と盆地の違いか」と思わせたのは、1枚の稲田が小さく狭くなったことだ。
上川盆地で稲作が本格化したのは、石狩平野よりも10年ほど遅い明治30年代の後半。冬は氷点下30度以下まで下がる酷寒の地だが、夏は30度を超える気候が稲作を可能にした。
列車は上川盆地の北端にさしかかり、ジーゼルのうなりを上げながら塩狩峠を登っていく。私は目をこらして稲田を見つづける。車窓から稲田が消えたとき、私は「これで日本の稲作地帯が終わった!」と思った。
石狩・天塩国境の塩狩峠に近づくにつれ、山々を覆う樹木は広葉樹から針葉樹に変わり、トドマツとエゾマツが目立って多くなる。石狩川と天塩川という北海道の二大河川の分水嶺になっている塩狩峠には塩狩駅があり、駅前には塩狩温泉の温泉宿がある。
列車は塩狩峠を越え、峠を下っていく。
天塩川流域の名寄盆地に入って行くと、思わず「あーっ!」と驚きの声を上げた。上川盆地で消えたとばかり思っていた稲田が、名寄盆地の車窓にまた現れてきたからだ。北緯44度の名寄盆地は稲作地帯なのだ。その驚きは、「日本の稲作の限界点がここまで北に延びているのか」という感動でもあった。
名寄盆地の稲作は、「米」に執着し、亜熱帯作物の稲の栽培限界を北へ、北へと押し上げつづけてきた先人たちの苦労に報いるかのように、秋の日射しを浴びてまばゆいばかりに輝いていた。
日本列島を西から東へ、東からさらには北へと伝わった、弥生以来の2000年を超える稲作の歴史の最先端を私は見た!といったら言い過ぎであろうか。
9時28分、士別着。まだ稲田が見える。
10時01分、名寄着。まだ稲田が見える。
列車は名寄を出ると、天塩川の右岸を走る。やがて列車は名寄盆地を走り抜けて、谷間に入って行く。そこで稲田は消えた。
10時22分、美深着。名寄盆地で消えたとばかり思った稲田だったが、美深盆地にまた現れた。「いったい日本人は、どこまで北で稲を作っているのだろう」。しかし、さすがにこのあたりまで来ると、トウモロコシやジャガイモ、大豆畑の片隅にある小さな稲田になる。
美深駅を出てから2つ目の紋穂内駅の手前で、稲田を見た。これが車窓から見た最後の稲田になった。稲田が見えなくなると、車窓を流れていく風景は色を失い、荒涼とした風景に変わっていく。それとともに、別世界にただ一人、放り出されたような寂しさをも感じた。この寂しさはどこから来るのであろうか。米を食べつづけてきた私に流れる日本人としての血が、そう感じ取るのであろうか。
10時57分、音威子府着。ここは天北線との分岐駅。音威子府を過ぎると、天塩川の両岸には牧場がつづく。列車が北上するにつれて牧場の規模は大きくなり、より機械化されてくる。大型機械で刈り取られた牧草が、ロール状に巻かれている。
12時03分、幌延着。このあたりまで来ると、車窓に広がる風景は日本離れした雄大なものとなり、地平線が見える。列車はサロベツ原野の東端を走っている。日本海から吹き付けてくる北西の強風のせいで、線路沿いの樹木は南東に向かっておじぎをするような格好で傾いている。
列車は平原から丘陵地帯に入った。丘陵の斜面はクマザサで覆いつくされている。クマザサの風に哭く音が聞こえてくるかのようだった。
日本海が見えてきた。列車は海岸段丘上を通っているので、長く延びる海岸線を見下ろせる。日本海の向こうには礼文島と利尻島が見える。利尻島の利尻冨士(1719m)が抜けるような青空に、ツンと尖って聳えている。この素晴らしい風景を乗客に見てもらおうと、列車はスピードを落とし、「正面に見えますのが利尻富士です」という車内アナウンスがあった。
急行「礼文」の稚内到着は13時05分だった。
日本最北の駅、稚内駅前からはバスに乗って、日本最北端の宗谷岬に行った。北緯45度32分の宗谷岬には、北を現す「N」をシンボライズしたモニュメントが立っている。その前に立ち、宗谷海峡の彼方を眺めると、サハリンが見える。
思わず「嗚呼、樺太に渡りたい!」という声が出た。
宗谷海峡を渡る風に吹かれながら、しばらくは「日本最北端の地碑」の前にたたずんでいた。夕暮れが迫ってくる。やがて真っ赤な夕日が左手の日本海に落ちていく。それとともに右手のオホーツク海からは満月が昇った。