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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

ジクサー150分割日本一周[235]

投稿日:2021年8月13日

北海道一周編 53(2020年4月15日)

天塩川河畔の「北海道命名の地」

 日本海の遠別から道道119号で咲花峠を越え、国道40号に出た。

 天塩川沿いの国道40号で音威子府方向に10キロほど走ったところが「北海道命名の地」への入口。天塩川の河畔に下ったところには、「北海道命名の地」碑が立っている。「北海道」の名付け親は探検家の松浦武四郎。その松浦武四郎の「天塩日誌」の案内板も立っている。それには次のように書かれている。

 安政4年(1857年)6月、探検家の松浦武四郎(当時40歳)は蝦夷地に渡り、アイヌの男性4人と2艘の丸木舟で天塩川の探査をおこない、『天塩日誌』を残しました。北海道第2の大河でありながら、当時は未開の地であった天塩川流域の調査は、往復24日間の行程で、多くの困難と共に豊かな自然とアイヌ文化に触れる壮大な旅でした。現在地は探査5日目に宿泊したと推定されている「トンベツホ(音威子府村頓別坊)」です。武四郎はこの地でアイヌの人たちの暖かな心に触れるのでした。

6月11日(調査5日目)
 夜明けを待って出発。空には黒い雨雲があって、地上には濃い朝もやがたちこめている。川岸にはウニシテやラウラウが多く見られるが、これらはアイヌの人たちが食料とする野草である。

 先に進むと両岸は岩の崖になり、舟に網をつけ、引いて上がる。やがてカムイルウサン(中川町神居山)という高さが約900メートルもある絶壁がそそり立ち、その頂にはエゾマツなどが岩を這うように生えていて奇景である。この地はたいへん神聖な場所なので、通る際にはいつもイナウとタバコと米を一つまみづつ、この地の神に供えてから通るのだという。

 ここを過ぎると、重なり合った岩の上から一筋の滝が落ち、7段にわたって流れている。周囲は険しい崖ばかりで、様々な動物を思わせるような奇岩怪石が川の中に見られる。浅いつもりで川の中を歩くと急に深くなるので、大変危険で、ここで溺れる者も多い。そのことから昔から川を歩いて渡ることは、厳しく禁じられているそうである。

 トンベツホには家が2軒ある。ここに案内人トセツの妻子が来ていたので、今夜はトンベツホに泊ることにした。

 この日、暮れてから近くでしきりに「ホッ、ホッ、ホッホッ」と鳴く鳥の声を聞いた。アイヌの人たちはアオチカダンチカフと呼んでいるらしいが、黄泉鳥の意味だそうである。「仏法、仏法」とか「梅干し、梅干し」と鳴いているようにも聞こえるが、この家の主人のアエトモの話では、昔、最上徳内もこの鳴き声を聞いて、この鳥は本土の尊い高山にいる仏法僧だと語ったそうだ。それで私もこれがかの有名な仏法僧であることを知ったのである。

 松浦武四郎はアイヌの長老のアエトモからアイヌの通称である「カイナ」とは、「この国に生まれた者」という意味だということを教えられた。「ナ」は貴人をさす尊敬語だという。これを聞いた武四郎は、アイヌの人たちは自らの国を「かい」と呼ぶことを知り、「加伊」の字を当てた。

 その後、明治2年(1869年)に、松浦武四郎は道名に関する意見書を提出した。「北加伊道」、「日高見道」、「海北道」、「海島道」、「東北道」「千島道」の6道の案を提示したが、このうち北加伊道(ほっかいどう)が採用され、加伊を海に替えて「北海道」が誕生した。これをもって日本は東海道、東山道、北陸道、南海道、山陰道、山陽道、西海道の7道に北海道が加わって、8道になった。

天塩川沿いの国道40号を行く「北海道命名の地」への入口天塩川河畔の「北海道命名の地」

天塩川沿いの国道40号を行く 「北海道命名の地」への入口 天塩川河畔の「北海道命名の地」

「北海道命名の地」碑が立っている松浦武四郎の「天塩日誌」の案内板天塩川の河畔に残る雪

「北海道命名の地」碑が立っている 松浦武四郎の「天塩日誌」の案内板 天塩川の河畔に残る雪

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