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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

ジクサー150分割日本一周[326]

投稿日:2022年8月15日

関西一周後編 9(2020年6月2日)

山城の国府めぐり(その2)

国道1号と国道9号の分岐点

国道1号と国道9号の分岐点

国道1号で東寺の南大門前を通る

国道1号で東寺の南大門前を通る

大山崎にやってきた

大山崎にやってきた

大山崎の竹林

大山崎の竹林

 周山街道(国道162号)の周山から京都に戻ると、国道1号→国道171号で大山崎へ。大阪との府境の大山崎は天下分け目の天王山でよく知られているが、ここは山城の国府跡のひとつ。嵯峨天皇の離宮の河陽離宮があった。

 山城国府はこのほかに京都市内の太秦、長岡京市の神足、木津川市の山城町と、全部で4ヵ所の推定国府所在地がある。

 北に高く、南に低い盆地に開けた京都の町。北山から流れ出る賀茂川、高野川の扇状地に町はできた。2つの川は合流し、鴨川になる。

 西山の山並みを貫いて流れてくる桂川、琵琶湖から流れてくる宇治川、笠置山地から流れてくる木津川、それと鴨川が京都盆地の出口で合流し、淀川になって大阪平野に流れていく。

 大山崎の天王山と対岸の八幡市の男山が門のようにそそり立ち、その間から淀川が流れ出ていく。このように大山崎は京都盆地の出口に位置しているのだ。

 豊臣秀吉が明智光秀を破り、天下を取った天王山。天王山はまさしく「天下分け目の天王山」なのだ。京都盆地の出口のこの地は、千年の都、京都の首根っこ。都の首根っこをおさえるということは、日本を掌握することにほかならない。

 大山崎は今でこそ京都の外れになってしまったが、かつては京都と大坂(大阪)を結びつける商業の中心地であり、水運の要でもあり、山崎商人は大いに繁栄を謳歌した。ここはまた日本の製油発祥の地。「油」で莫大な富を得た。その歴史を振り返えってみると、山崎の上に「大」を付ける気分が納得できる。

山崎聖天の観音寺入口観音寺の山門天王山の登り口

山崎聖天の観音寺入口 観音寺の山門 天王山の登り口

 大山崎の離宮八幡宮にやってきた。ここは山城国府跡。鳥居をくぐり、神門を通り、拝殿で参拝。境内には「河陽離宮址」の碑が立ち、塔心礎が残されている。「本邦製油発祥の地」碑と「油祖像」も立っている。

「本邦製油発祥の地」の案内板には次のように書かれている。

 平安時代、当宮の神官が「長木」という油しぼりの道具を作ったといわれています。長さ約6メートルの八角形の柱を3本組み合わせ、油をしぼるための部品を挟み込み、縄で締め上げて荏胡麻の実を押しつぶして油を作りました。これによって神前に捧げる灯明の荏胡麻油を大量にしぼることができるようになりました。

 中世になると当宮の油神人は荏胡麻油の製造・販売の独占権を認められるようになりました。山崎の油売りたちは日本中にエゴマの買い付けに出向き、日本中に油を売りにいくようになりました。

山城国府跡の離宮八幡宮にやってきた離宮八幡宮の境内案内図離宮八幡宮の鳥居

山城国府跡の離宮八幡宮にやってきた 離宮八幡宮の境内案内図 離宮八幡宮の鳥居

離宮八幡宮の神門離宮八幡宮の拝殿離宮八幡宮の「河陽離宮址」の碑

離宮八幡宮の神門 離宮八幡宮の拝殿 離宮八幡宮の「河陽離宮址」の碑

離宮八幡宮に残る「塔心礎」離宮八幡宮の「本邦製油発祥の地」碑離宮八幡宮の「油祖像」

離宮八幡宮に残る「塔心礎」 離宮八幡宮の「本邦製油発祥の地」碑 離宮八幡宮の「油祖像」

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