カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

ジクサー150分割日本一周[327]

投稿日:2022年8月17日

関西一周後編 10(2020年6月2日)

山城の国府めぐり(その3)

JR奈良線の宇治駅

JR奈良線の宇治駅

宇治を流れる宇治川

宇治を流れる宇治川

 大山崎を出発。大山崎ICで京滋バイパスに入り、宇治東ICで降り、府道15号で宇治へ。JR奈良線の宇治駅前でジクサー150を止めた。

 宇治川の流れを見たあと、宇治の平等院を拝観。平等院の前には何軒もの宇治茶の店が並んでいる。

宇治の平等院平等院前の宇治茶の店店先に並ぶ宇治茶

宇治の平等院 平等院前の宇治茶の店 店先に並ぶ宇治茶

山城国府跡の「山城郷土資料館」

山城国府跡の「山城郷土資料館」

 宇治からは国道24号で木津川市へ。木津川の流れに沿って走り、国道163号で恭仁(くに)宮跡へ。ここが山城の国府跡。大山崎町は大阪との府境にあるが、木津川市も奈良との府県境に位置している。大山崎と木津川。ともに山城国のはずれにあるのがおもしろい。

 まずは国府跡の「山城郷土資料館」に行ったが、残念ながら休館中。次に恭仁宮跡へ。ここは山城国分寺跡でもある。案内板には次のように書かれている。

 恭仁宮は奈良時代に聖武天皇によって造られた都です。当時、たびたび疫病や動乱に見舞われ、世情不安の中、こうした事態を打開するため、聖武天皇は奈良の平城京を離れ、各地を転々とした後、天平12年(740年)に加茂町(現木津川市)の瓶原(みかのはら)の地を中心にして新都を定めました。しかし恭仁京は天平16年(744年)にわずか4年あまりで廃都されてしまいます。

 その後、宮城は大極殿を中心にして、山城国分寺として再利用されることになります。山城国分寺は恭仁宮の大極殿をそのまま用いた金堂を中心に南北3町(約330m)、東西2町半(約275m)の広大な寺域をもつ寺でした。山城国分寺跡には現在も金堂跡の基壇と塔跡の基壇が地表に残されています。

 山城国分寺跡を歩いたが、広々とした園地では地元のみなさんが親子でサッカーをしている。しばらくは国分寺跡の親子サッカーを見ていた。

恭仁宮跡恭仁宮大極殿の復元図山城国分寺跡

恭仁宮跡 恭仁宮大極殿の復元図 山城国分寺跡

山城国分寺の復元図山城国分寺の礎石山城国分寺跡の広い園地

山城国分寺の復元図 山城国分寺の礎石 山城国分寺跡の広い園地

山城国分寺跡では親子でサッカーをしている山城国分寺跡の恭仁小学校恭仁小学校の校舎

山城国分寺跡では親子でサッカーをしている 山城国分寺跡の恭仁小学校 恭仁小学校の校舎

国道307号の裏白峠

国道307号の裏白峠

 恭仁宮跡を出発。来た道を引き返し、国道163号→国道24号→国道307号で京都・滋賀府県境の裏白峠を越えた。裏白峠は山城・近江国境の峠。近江に入ると、近江の国府所在地の大津に向かった。

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