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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本巡礼[371]

投稿日:2016年6月14日

武甲山と秩父盆地を一望

秩父三十四ヵ所めぐり 2009年6月19日

第21番の観音寺

第21番の観音寺

観音寺では巡礼団と出会う

観音寺では巡礼団と出会う

第22番永福寺の山門

第22番永福寺の山門

第22番永福寺の本堂

第22番永福寺の本堂

第22番永福寺を参拝

第22番永福寺を参拝

第23番の音楽寺

第23番の音楽寺

 第21番の観音寺、第22番の永福寺、第23番の音楽寺と、アドレスを走らせての「秩父三十四ヵ所」の札所めぐりはつづく。

 第21番の観音寺では「秩父三十四ヵ所めぐり」の巡礼団のグループと出会った。観音寺の本尊は聖観音。みなさんは真言の「おん あろりきゃ そわか」を唱え、「梓弓 いる矢の堂に詣で来て 願ひし法に あたる嬉しさ」と御詠歌を歌う。
 観音寺の案内板には次のように書かれている。

 この堂は通称「矢の堂」と称し、本尊は聖観音で他に幾体かの仏像があります。大正12年の小学校の火災により類焼した後、今の堂がつくられました。焼失前は三間四面の堂であったといわれ、境内には聖観音立像、百萬遍念仏塔、弁財天石塔、芭蕉句碑等があり盛時が偲ばれます。堂前の道端には地芝居役者の座頭中村十九十郎(田舎千両と称えられた)の墓もあって地芝居隆盛の昔を偲ぶ民俗資料としても貴重です。昔この地は元八幡宮の社地で神託により観世音の霊場になったといいます。邪神悪魔を除き仏地にせんと八幡大菩薩の放つ矢がここに落ち、悪魔が退散したので「矢の堂」と名づけたという縁起があります。

 観音寺は火難に対して霊験があるところから「火伏観音」とも呼ばれ、多くの人たちの篤い信仰を集めている。

 第22番の永福寺は、一般には「童子堂」と呼ばれている。「童子(どうし)堂」とも「童子(わらべ)堂」ともいわれる。子供にまつわる伝説がいくつもあるからだ。

 その昔、讃岐で飢えた修行僧に食事を与えなかった金持ちの農家の主人が、その罰で子供を犬に変えられてしまった。罪を悔い、その犬を引きつれて四国、西国、坂東の各霊場を巡拝すると、ここ秩父の童子堂まで来たところ、息子が犬の姿から元の人間の姿に戻ったという。

 茅葺の山門(仁王門)をくぐり、四注屋根三間四面の本堂を参拝。本尊は聖観音だ。

 第23番の音楽寺の名前は現代的だが、寺の創建は古く、天長年間(824年〜834年)だという。慈覚大師が霊場を開くために巡行した際、武甲山と秩父盆地を一望できるこの地で聖観音を刻み、安置する場所を探し求めて山道を行くと、小男鹿(牡鹿)が道案内をしたという。本堂は三間四面二重垂木の吹き寄せで、本尊は聖観音。この札所は秩父でも屈指の景観地にある。

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