ジクサー150分割日本一周[259]
投稿日:2021年11月15日
神威岬は「義経北行伝説」の地
神威岬の駐車場にジクサー150を止めると、岬突端までの遊歩道を歩いていく。遊歩道の両側には笹がおい茂っている。女人禁制の門を通り抜けると展望が開け、行く手には白黒2色の灯台が見える。尾根上の小道を歩きながら積丹半島の海岸線を見る。
岬入口の案内板には所要時間が出ていたが、駐車場から岬の突端までは合計すると37分。それとほぼ同じくらいの時間をかけて歩き、灯台に到着した。
岬突端の集塊岩の台地は日本海の波の浸食で削られ、高さ100メートルほどの断崖になっている。下をのぞきこむと、目がくらみそう。積丹ブルーの海の色が鮮やか。その先の岩礁に伝説の神威岩がそそり立っている。
神威岬は「義経北行伝説」の地。日高・平取の首長の娘チャレンカは、義経に会ってからというもの恋のとりこになり、義経に一目会いたくて神威岬までやってきた。だが義経の一行は船出したあとで、嘆き悲しんだチャレンカは岬から身を投げた。そんな彼女の体が神威岩に変わったのだという。
「東北一周編」では「義経北行伝説」にふれたが、ここでもう一度、読んでいただこう。
「松前街道終点」の碑に隣りあって、「源義経渡道之地」碑が建っている。そこには「源義経龍神塔」と「静御前龍神塔」。源義経と静御前は神としてまつられている。断崖上には義経寺がある。
津軽海峡を渡った北海道・日高の平取には義経神社がある。義経はここでは「競馬の神様」。東北でも北海道でも、義経・弁慶の主従は神として崇め奉られているが、これはいったいどういうことなのか。
平家を打ち破り、源氏に大勝利をもたらした源義経は、兄頼朝の反感をかって都を追われた。義経は弁慶を従え、命がけで奥州・平泉に逃げ落ち、奥州の雄、藤原氏三代目の秀衡の庇護を受けた。しかし頼朝の義経追求の手は厳しさを増した。
秀衡の死後、その子泰衡は頼朝を恐れ、義経一家が居を構えていた北上川を見下ろす高館を急襲。弁慶は無数の矢を射られ、仁王立ちになって死んだ。義経は妻子とともに自害した。頼朝の平泉攻撃の3ヵ月前、文治5年(1189年)4月30日のことだった。
こうして悲劇の英雄、源義経は、奥州・平泉の地で最期をとげたことになっている。
だが、なんとも不思議なことに平泉以北の東北各地には、義経・弁慶の主従が北へ、北へと逃げのびていったという「義経北行伝説」の地が点々とつづいているのだ。
それは義経や弁慶をまつる神社や寺だったり、義経と弁慶が泊まったという民家だったり、義経と弁慶が入った風呂だったり…。その「義経北行伝説」の地を結んでいくと、一本のきれいな線になって北上山地を越え、三陸海岸から八戸、青森、そして津軽半島の三厩へとつづいている。
三厩には「義経北行伝説」の「厩石」がある。
蝦夷地を望むこの地までやってきた義経一行は、荒れ狂う津軽海峡に行く手を阻まれてしまった。そこで義経は海岸の奇岩の上に座って3日3晩、観音に海峡の波風を鎮めてくれるよう一心に祈願した。すると満願の暁に白髪の翁が現れ、「3頭の龍馬を与えよう。これに乗って海峡を渡るがよい」と言って消えた。奇岩から降りると、岩穴には3頭の龍馬が繋がれていた。海は鎮まり、波ひとつなかった。義経一行は3頭の龍馬に乗り、蝦夷地に渡ることができた。
それ以降、この奇岩を「厩石」、この地を「三厩」と呼ぶようになったという。
三厩までやって来るとこの地が街道の終点ではなく、さらに北へ、北へと延びていることがよくわかる。「義経北行伝説」はそれを証明しているようなものだ。三厩漁港の岸壁に立っていると、遙かな北の世界に胸を躍らせてしまう。
国道280号も三厩が終点ではなく、北海道に渡り、福島から知内、木古内を通り、函館が終点になっている。「福島〜函館」間は、国道228号との重複区間になっている。